日本の大学の来し方行く末
最近受けた質問で、ちょっと答えに困りました。結論は、あるような気もするし、ないような気もする、でした。回答にならず、申し訳ありません。以前、自己変革をする時というコラムで、ブッダ時代の仏教を例に出して、努力は自己変革をする際にするものであるという趣旨のことを書きました。私の言いたかったこととしては、この種の努力は誰でもできるということでした。しかし、本当に、誰でもできるのか?才能は一切関係ないのか?そう問われると、ちょっと自信がありません。
まず努力というのは、漠然としている言葉で、自己評価と他者評価が乖離していることが珍しくないという点に注目すべきです。客観的努力指標を作るのは至難の業です。結果論で語るか、プロセス論で語るかが人によって違いますし、ましてや同じ人でも時に応じて違うことを言うからです。教育はエビデンスベースになる日はまだまだ先のようです。私は教育は必ずしもエビデンスベースにならなくてもいいと考えています。教師の個性や感覚をもとに、生徒の才能を引き出すことがeducatioの語源(引き出すこと)であるはずです。
かく言う私も、何度も言ってきましたが、基本的には結果主義者です。塾内での教育はどこまでもプロセス重視です。結果が全てというのは、世の中の現実として言うことであって、塾の教育とは別問題だからです。それでも結果主義にはかわりはありません。結果を出すには、「とりあえず」ではなく、「正しい努力」が必要です。一方で、努力をした自分と向き合うことも重要です。それ故、受験前日に、自分の机の上にこの数ヶ月で勉強したことを全部出して、振り返りをしてくださいということを、必修の授業の中でもよく伝えています。
しかし、努力をしたからといって必ず成功するわけではありません。私たちから見ても、努力をしているにも関わらず、結果がついてこない人はいます。一方、誰がどう見ても、努力していないのに、成功するという人もたまにはいます。その意味で、努力はして当たり前の類で、あらゆる分野においても、成功するには、「適切な正しい努力」をすることが前提です。
例えば、ダイエットでも、成功するかどうかの境目は、どれだけ「緻密かつ適切な努力」をするかです。また、目標達成とその後の継続という両面に向けた努力がなければ、成功とは言えません。これを言うと、急に、「私は意思が弱いから」「つい食べちゃう人なんです」「我慢が苦手」、こういったことを言う人が出てきます。これを努力する才能がないと断じることはできますが、何か少し違うように思います。
私が思うに、「緻密かつ適切な正しい努力」をすることができる人は、目標設定と達成後の継続について長期的視野を持つことが、まず挙げられます。一方、短期的なプランで、先を考えないことでモチベーションを上げ、高い成果を得るために集中的に努力をするというパターンもあります。
いずれにせよ、、「緻密かつ適切な正しい努力」をすることができる人は、環境を整えるか、あるいは見つける才能はあります。もちろん、私たちのような塾はその環境でなければなりません。
最後に、私が知る本当に、「緻密かつ適切な正しい適切な努力」をすることができる人(残念ながら私ではありません)をまとめます。
①長期的視野とプランを持っており、それに向けてピンポイントで努力することができる。
②努力を目標としない。努力はして当たり前と考えている。
③してはならないとわかっていることは、そもそもしない。
④しなければならないことを理解して、それを出し惜しみなくする。
⑤プロセス論と結果論のバランスが取れている。
これらを全部そろえている人が努力する才能のある人と考えています。
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