面倒見のいい大学と大学生の学力
前回の延長線のトピックです。
これまでも似たようなことは書いてきましたが、
例えばこちら
学問分野に、最初から役に立つ分野などありません。
「役に立つ」というよりは、学んだことを、学んだ人がどのように
「役に立てる」かの方が重要です。
その目線で見た場合、役に立たない学問分野などありません。
「そんなことを勉強しても何の役にも立たない」
と言い切る人がいた場合、その人の教養を疑います。
かつて東大教養部は、『知の技法』をはじめとする「知の三部作」といわれる
書籍を出版し、教養の重要性を説きました。近年になって、
『教養のためのブックガイド』を出版し、それとともに「知の三部作」も再版されました。
いずれも良書で、今尚生きた情報もたくさんあります。
政府関係者や文科省役人は、東大出身もたくさんいると思うのですが、
なぜか学問を「役に立つ」か、「役に立たない」かで区別しようとします。
私の専門とする仏教学など「役に立たない典型」と言われそうな勢いですが、
断じてそんなことはありません。仏教は、この世界を生きていくために
大いに役に立ちます。要は使い方次第であり、使えるようになるのは
各自の教養次第です。
仏教ではこういった区別や区別を生みたがる心のことを「二」として、
これをを離れることの重要性を説きます。
これを「不二」と言います。智慧を働かせて、考えて、考え抜いた場合、
この区別の愚かさに気づきます。極めて曖昧なものでありますし、
そんな区別をしたとしても、極めて愚かしいことしか生じません。
こんな愚かな区別は教養とはかけ離れており、実は誰の役にも立たないもの
であるだけではなく、余計な争い、余計な怨嗟を生みます。
また、余計なことをしたがために、新たな差別も生まれます。
確実に何か良いものが生まれるという見込みがたっているならばともかく、
余計なものしか生まれない区別など、それこそ役に立たないのです。
もちろん、すべての区別が無用ということではなく、区別した状態で
思考することは、束縛された状態での思考であって、この区別を
離した状態で思考をすることが重要なのです。
なぜなら、区別は、自然発生的に最初から存在するのではなく、
後から、人間が人為的に作ったものだからです。
学問分野に対して、役に立つ、役に立たない、という区別も同様です。
その区別を、何となく、多くの人が漠然と考えるならばともかく、
国という名の役所が「公的」に発表してしまえば、その区別の尺度に対して
大きな責任がかかるはずです。
仮にそのような責任者がいるとすれば、いずれ、「自分が役に立たない」とラベルを
貼られる時が来た時、その人は何を思うのでしょうか。それに耐えうる教養を
養っておくことをおすすめします。
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