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東京を離れて30年が過ぎ・・―否、田舎に戻って30年か―

海江田博士

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テーマ:自分を振り返る

今日の目次
まだそんなの・・だと!
・東京を離れて30年超

どっちだって一緒じゃないか
あの会社、俺がいたら・・
3倍くらいの時間を要する?
やっぱり東京を離れるんじゃなかった
二つ返事で引き受けた申し出
ちょうどバランスも取れた

まだそんなの・・だと!

昭和(1989年)の頃から私にはずっと使い続けているシステム手帳があります。社員たち(特に女性陣)に「まだそんなの使っているんですか?!」と揶揄されながらも、長年慣れきったこいつを手放せないでいるのです。
システム手帳・・・以前(昭和、平成)は大抵のビジネスマン、ビジネスウーマンが持っていて使っていました。しかし、時代が移って、これ自体もう古いツールの一つになるのかなあ、と思ったりします。
私が使っているのは、Bindex社の011というナンバーの製品で、ずっと中のページのレイアウトが変わらない点が助かっています。といっても、途中、2009年に私はこいつをB5サイズからA5サイズへとやや大型化させました。
いろいろと書き込む情報の量が増えたので、サイズアップしたのです。その後も2025年の今日までずっと使い続けています。

東京を離れて30年超

先日、ふと「俺が東京を引き上げて田舎に戻ったのはいつだったっけ?」と思い、頭の中で計算してみました。それでもはっきりしないので、例のシステム手帳のアーカイブをひっくり返してみたのです。
こいつは、東京で起業したビジネスをやっていた時からの付き合いです。だから随分古くからの付き合いということになります。
一年が終わったら、レザー製のカバーから中身だけ外し、その一年分をクリップしてずっと保管しているのです。1cmくらいの厚みのある手帳の1年分が、もう40冊以上溜まっていますから、かれこれ40年以上同じ仕様のものを使い続けていることになるわけです。
とにかく、いつ田舎に戻ったかハッキリしなかったので「確か1993年か1994年だったよなあ。」と、あてずっぽうにこいつを開いてみたら1994年、平成6年でした。東京を離れてもう30年以上過ぎたことになります。

どっちだって一緒じゃないか

ここでふと考えてみました。この30年って「東京を離れて30年」だったのか「田舎に戻って30年」だったのか、どっちだろうと。
そんなもん、どっちだって全く一緒じゃないか、と思われるかも知れませんね。確かに言葉の上っ面だけだとその通りです。別にどっちにしろ「30年は30年だろ。」ということになります。
ただ、私にとってこの言葉のニュアンスは、かなり異なったものになるのです。30年前、東京を引き上げて家族で田舎に戻ったときは『(心ならずも)東京を離れてしまった』という気持ちが強かったことを覚えています。
自ら望んで田舎に帰ったのであれば「田舎に戻って30年」という言葉もしっくりきます。しかし、そうではなかった、というところに私の心境の複雑さがあるのです。

あの会社、俺がいたら・・

友人と東京の神宮前に会社を立ちあげたのは1984年(昭和59年)でした。そこでは、随分面白いビジネスを10年続けました。
できればそのビジネスを続けたかったのですが、バブルがはじけて以降、受注が思うように取れなくなり、自らをリストラするしかなかったのです。私が去ったあとも、その小さな会社はしばらく続いていました。
当初は、かつてのスッタフたちとも連絡を取りあったりしていましたが、だんだん縁遠くなり、やがて交流もなくなりました。風の便りに、数年前にその会社は閉じた、と聞きました。
『俺がいたら、あの会社はまだ続いていただろうか。』と、ときどき思います。田舎に帰ったとき『もうちょっと、東京で頑張れなかったかなあ・・』との思いを捨てきれずにいました。しかし、時代の波に乗って作った会社だったので、結局維持するのは難しかっただろうな、と今では思います。
「田舎に戻って・・」という表現に馴染めなかったのは、上記のように望んで帰ったわけではなかったからかも知れません。心ならずも、との思いをずっと消せずにいたのでした。

3倍くらいの時間を要する?

とはいえ、こうして30年以上経ってしまいました。今、この30年はどうだったんだろう、と考えるのです。
私は以前このブログで、
「自分はかつて、東京で会社を起こして働きまくった。あのときの10年間は、普通の仕事の30年分くらいは働いた気がする。だから、田舎に帰って30年くらい働かないと東京で働いた分とは釣り合わない。」
みたいなことを書いたことがあります。つまり、東京でのビジネスと釣り合うためには、3倍くらいの時間を要するだろうと思ったのです。
東京で仕事していたときは、とにかく忙しくて面白くて、やりがいもあったので、そんなことを言える矜持が自分にはあったのでした。それに「自分たちで起業した会社」に対する愛着があった、というのも大きかったと思います。

やっぱり東京を離れるんじゃなかった

田舎に帰ってからの職場である税理士事務所は、当初まだ元気だった父のものでした。別に、いきなりこっちが仕切るという考えはなかったものの、やがて自分なりの事務所にしていけるのだろう、と思っていました。
ところが、何年経っても父が私に引き継ごうとする様子が見えません。「お前が帰って来ないんだったら、事務所は売り飛ばす!」などと言っていた父が、私が戻った途端、「もう少し俺が続けようと思う。」と、私から見れば手のひら返しをするではありませんか。
私も50歳に手が届くかな、となった頃、さすがに我慢できず「いつ事務所を譲るのか?」と迫ったことがあったのです。そうすると父は烈火のごとく怒りはじめ、あわや大喧嘩になりそうになったので、こっちが「もういいよ。」と、主張を引っ込めたのでした。
そのときです。『ああ、やっぱり東京を離れるんじゃなかったな。』と思ったのは。『結局、田舎に戻ったのは失敗だったのか・・』との思いが拭いきれなくなったのでした。

二つ返事で引き受けた申し出

ちょうどそのタイミングでした。隣町の年配の税理士さんが亡くなったという知らせがきたのです。
あとを継ぐ人が誰もいなかったため、私に「事務所を引き継ぎませんか?」との打診があったのです。当面、父は自分の事務所を私に任す気はなさそうだったので、私はその申し出を二つ返事で引き受けたのです。
後年、あの出来事がなかったら、「俺は税理士を続けていなかったかも知れないな。」と思ったりもしました。そういう意味では、絶妙のタイミングで幸運が舞い込んできたことになります。
これが田舎に戻って10年以内に起こった出来事です。それから20年以上経ちました。この間に父も亡くなって、二つの事務所は合併し、完全に私が経営する職場になったのです。

ちょうどバランスも取れた

その後、事務所は法人化して、次第に個人経営という感じは無くなりつつあります。子供たちは誰も後を継いではくれなかったけれど、「法人」という形を整えたので、しかるべき人材を見つけることができれば、この仕事を継承していくことは可能です。
ここまで来ると「東京を離れて・・」という気持ちは、かなり薄らいできています。「東京でのビジネス密度10年=田舎でのビジネス実感30年」とちょうどバランスも取れました。気持ちの償却が進んだ、ということになるのでしょうか。
それに、子供たちは大学へ入学する時点で、次々とまた東京へと戻って行き、その後向こうで結婚もして家庭も持ちました。数年前にはカミさんも「お孫ちゃんのお守り」を名目に上京し、そのまま居ついてしまっています。
「田舎に戻って30年」70歳を超えた今、若いスタッフも増えて、一つの区切りがついたような気もしています。さて、次のステップがさらに20年になるのかそれとも15年なのか、10年なのか、なんともわかりません。
しかし今明らかに「何か新しいステージに踏み出したいなあ。」と思っている自分がいます。また何か、とんでもないことをしでかすかも知れません、私のことですから。


この30年で東京もすっかり様変わりしたけど

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海江田博士
専門家

海江田博士(税理士)

税理士法人アリエス

税務相談はもちろんのこと、従来の税理士としての職務に留まらず経営者自身で革新できることを目指した支援を続けています。日本経済をしっかりと支えられる強い基盤を持った中小企業への第一歩のお手伝いをします。

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