都会と田舎、イメージによって語られる人間像―映画「ブルックリン」に見る格差と排他主義について―Ⅱ
[一回しで終わってしまうという、構造]
こう書いてきて思い出すのは、以前テレビの特集番組で取り上げていたアフリカへの経済援助の実態です。
アフリカでは、国際機関がおカネを突っ込んで様々な機材や設備など整備しても、数年経って視察するともう元に戻っている、という実態を取材していました。
当然、援助と同時に技術指導なども行なうのだが、指導者が現地を離れると自主的に動く仕組みがないために、農業にしても土木にしても技術やノウハウが現地に根付かないのです。
数年後、再び荒れ果てた畑や、部品の調達や修理ができないために道端に放置された土木機械などが映像に映し出されていました。
補助金を受ける地方の実態は、こんなアフリカの実態とよく似ているではないでしょうか。
「一回し(ひとまわし)の経済助成」などまさにそのものです。
しかもそれが日本国内でそんな現状というのは恥ずかしい話ではありませんか。
木村氏はその点についても更にこんな風に書いています。
―つまり、問題は「一回しで終わってしまうという、構造そのもの」にあります。
「利益」と真正面から向き合わない、「予算型活性化事業」
地方に必要なのは、一回しで終わらない、一度資金を入れたらそれをもとに、地域内経済を取り込んで回り続けるエンジンです。
投資した金額をもとにして利益が生み出されて、はじめて継続的に市場が生まれ、その市場を相手にした事業で、人が雇用され、彼らが地域でさらに消費を生み出していくという「好循環」が求められているわけです。
もし、継続する事業があれば、立ち上げに投じた資金も、1回だけの金額だけで終わらず、毎年雇用を生み出し、利益を生み出し、さらにその地域を活性化させる「再投資」を地域内で行うことができます。そうしていくうちに、エンジンはさらに強化されて、地域内経済だけでなく、地域外経済も対象にした事業に発展していく可能性があります。これが地域の発展につながります。―
如何なる事業も、市場(顧客)を創出できなければ意味がありません。(かの有名なドラッカーもそう言っています。)
持続性が担保できないからです。
持続性がないということは、一過性で終わるということです。
それでも、こんなやり方が長年続いてきた、というのが不思議といえば不思議な話です。
いつのまにか、日本人はこんなやり方に慣れきってしまったのでしょうか。
こういった現状が、どのような結果をもたらすのかについても、木村氏は分析し、警鐘を鳴らしています。
アフリカの夜明けは遠いのか・・・
つづく