障害者施設での虐待を描いたTVドラマ「聖者の行進」
見たい見たいと思いながら、日程が合わずに神戸で見られなかった映画「ぼけますから、よろしくお願いします」を大阪まで行って見てきました。
色々なメディアで取り上げられていたので多くの方がご存知かもしれませんが、この作品はドキュメンタリー制作に携わるテレビディレクター信友直子さんがご自分の年老いていくご両親の日常を監督として記録されたドキュメント作品です。
見ながらまるで信友監督の視点と自分の視点が重なってしまい、まるで自分の両親のように感じてしまうと同時に、自分自身の年齢を考えると、ご両親の姿に自分自身の行く末を重ねてしまう私もいました。そういう意味で色々なことを考えさせられた映画でした。
予告編はこちら
見終わって色々なことを考えさせられましたが、その中でネタバレにならない範囲でいくつかまとめてみたいと思います。
<何かを得、何かを失う、螺旋階段としての生>
まず思ったことは「生きるということは何かを得て、何かを失う、その繰り返しなのだ」ということです。結婚し伴侶を得、子どもを得、親という役割を得、その後子供が離れていくことで親の枠割から離れ、年齢を重ねるたびに体力・健康を次第に失い、記憶やこれまでできていた料理や家事の技術も次第にできなくなっていく。
しかし今度はそういう自分から自立して離れていった子供が、再び見守ってくれる存在として側に寄り添ってくれるようになり、新たに福祉サービスと出会うことでまた担当の人やデイサービスでの仲間など、新しい人たちとの出会いが生まれてくる。もちろん最後にはいのちという最後の足場を失うわけですが、それまでに様々な人や出来事に出会い、新しい何かを得るとともに、次第にさまざまな人との別れや大切にしていた何かを失っていく。
「人生はあざなう縄のごとし」と言いますが、すべては螺旋階段のように前進と後退を繰り返しながら、気が付いてみたら「そうか、ここまで来たのか」と来し方を振り返るものなのかもしれませんね。
<人生は「生きる意味」を探し求める過程>
そしてもう一つはそういう前進と後退を繰り返すささえでもあり、エネルギーともなるものはやはり「生きる意味」ではないか、ということです。
「生きる意味」とは人とのかかわりの中で「何か自分が役に立っている」「人に必要とされている自分がいる」という自分に対する存在意義見たいなものではないでしょうか。その逆の思いが「(こんなに何もできなくなった自分は)誰かに迷惑をかけることになる」「迷惑をかけてまで生きていたくない」という言葉なのかもしれません。
以前自殺予防のゲートキーパーの研修を受け、その中で色々と考えていく中で、「人は死ななければよい、自殺を防げばよいというものではない。やはり生きていく意味、人との関係の中で自分の存在意義を見出すことこそ大切なのではないか」と感じたことを思いだしました。
自殺はできるだけ防ぎたいですが、しかし同時に誰もが死に向かって生きていることはさだめであり、死ぬまでは自分の生を全うしたいものです。そのために「自分が生きている意味」を人とのかかわりの中で探し求め続けることこそ、「人間=人と人との間」に生きる存在として求められている営みなのかもしれません。そしてその原点はやはり「家族」にあるのではないか、ということを思わされた作品でした。
興味があればどうぞご覧ください。1月の後半には、また神戸(元町映画館)でも見られるそうですよ。