シンボリズムの森 ④ 「花」のシンボリズム
さて前回は「西洋の塔」を取り上げました。
西洋の塔はなんといっても天上世界に住む神へのあこがれが形としてあらわされたもの、つまり理想や目標への方向性を表すシンボルだと言ってもいいかもしれません。
では東洋の塔はどうでしょう。東洋の、といってもここでは五重塔などに代表とされる仏教の塔を考えてみます。
仏教の塔の場合、その発祥は仏舎利だと言われています。つまりブッダの骨を収めた墳墓の標であったのです。
それがいつの間にか「釈迦の死を示す標から、仏教の偉大さを示す標に変わってしまう」と梅原猛は言います。そしてその権威が、世俗的な権力とむすびついて「塔のイメージは、まさに、群臣にとりかこまれた王者のイメージ」になったと言うのです。現実的な権威・権力の象徴のイメージになったわけです。
またもう少し敷衍すれば、そういう宗教的な王者(具体的にはブッダ)への信仰を共にする信者が、釈迦尊に帰依するもの同士の絆を確かめるモニュメントでもあります。実はこれは現代でも私たちが無意識のもとに行っているのですが、何だかわかりますか?それは「墓参り」や「法事」などの仏事なのです。
考えてみれば私たちは何のために、あるいは何を求めて「墓参り」や「法事」などの仏事を行うのでしょうか?
確かに亡くなった方を生前の思い出を語るという意味もありますが、其れよりもむしろその方をめぐって地縁や血縁で結び付いた人たちが、お互いの絆を確認し合うためではないでしょうか。「墓参り」や「法事」の時に、めったに合わない親戚が一堂に会して、それぞれの近況を確かめ合ったり、お互いの結びつきを再確認するのです。
それがブッダの墓=仏塔であれば、ブッダに帰依するものとしての絆を、また世俗の個人のお墓であれば、個人をめぐる関係者の絆を再確認して人間関係を確固たるものにしていくのです。そういう意味で、実は「お墓」も仏塔なのです。形も同じでしょう?
そう考えると仏塔やお墓は「そこにまつられた故人のモニュメント=ここにこういう人がいた」という証であるとともに、個人をめぐる関係者間の絆の再確認するシンボルであるわけです。
そういう意味で西洋風の塔が「現実から理想へと向かうシンボル」であるとすれば、「仏教系の塔」はあくまでも「現実に足場を置いた絆を確認するためのシンボル」ということができそうです。