シンボリズムの森 ④ 「花」のシンボリズム
さて前回まで「水」についてあれこれとまとめてきました。今回は丁度梅雨の季節ということで「雨」を取り上げてみます。
「雨」と言えば、皆さんの中にも色々なイメージが浮かんでくるでしょう。例えばしとしと降る「涙雨」、ザーザーと降る「豪雨」、日照り続きの夏に降ってくれた「恵みの雨」などなど。これらのイメージからも私たち日本人は特に「雨」のような自然現象にかなりの思い入れをしてきたことがわかります。
例えば「涙雨」などという場合、やはり雨にはどちらかと言うと悲しみや憂いなどの気分の落ち込みを連想します。海外などでは「雨に歌えば」なんて映画もありますが、基本的に日本の場合「雨」には少し陰鬱なイメージ伴うようです。
また「豪雨」となると、最近の土砂災害も含めてかなりのストレスフルな状況を思い浮べます。ゲリラ豪雨ともなるとかなりの破壊力もありそうで、人力の及ばない自然の脅威を連想しますね。そういう陰鬱な状況やストレスフルな状況のに耐えて「傘」をさすという行為は、他人のストレス耐性や鬱屈した状況に耐える自尊心みたいなものも連想します。
しかし恵みの雨となるとこれはまた全然違います。昔から「雨乞いの儀式」などがあるように、こういう場合の雨は「神様の恵み」なのです。植物も枯れ果てそうなぐらいの飢饉に追い込まれた時に、神に祈りをささげることで恵みの雨が降り、また植物が生き生きと蘇り、収穫に結びつく。こういう出来事は、「雨」を通して神様とのつながりを実感させてくれる象徴的な出来事だったのです。
「トポフィリア(場所への愛)」というタイトルの著作で「人は環境をどう生きてきたか」について論じたイーフ・トゥーアンという方は、「雨」を含む水循環の自然現象について大変面白いことをおっしゃっています。
簡単に説明すると、昔は例えば地上の水が蒸気となって天へと上る垂直の上昇プロセスを魂が神の世界に上昇する様子に重ね、逆に天から雨となって神の恩寵が地上に降臨する様子に重ねて象徴的な理解をされていたようです。
しかし近世に入り、科学技術の進歩とともに、地上ー天上という垂直の軸から、海から蒸発する水蒸気が雲となって陸地へ流れ、それが雨となって地上に降り注ぎ、川の水や地下水となって再び海へと流れこむという、水平の軸をくわえた「水の循環プロセス」として科学的な理解に代わってきたと言います。
つまり近世以前の世界では、雨や雷、あるいは木が地上から芽を出し天へ向かって伸びる姿をなどに共通する「天と地を結ぶ垂直軸」は人間と神を直接的に結びつける軸だったのです。それが科学技術が進むにつれ、神の世界との結びつきよりも、「人間の世界=水平に広がる世界」の存在が存在感を増してきたと、トゥーアンさんは指摘しています。
「雨」の話から、かなり脱線してしまいましたが、昔の人間は様々な自然現象を何とか説明するために「神」というものを利用したのでしょうね。「神」とは何か、なんて難しい話はする気はありませんが、たかが雨一つにしてもそこまで想像力を広げる人間の「物語(ものがた)る力」に驚かされますね。