シンボリズムの森 ② 「木」のシンボリズムについて
さて前回「木」についてまとめましたが、シンボルというのはやはり様々な意味を多層に持ち合わせているものです。というか、われわれ人間が様々な文化や社会の中で、いろいろな意味を「木」なら「木」に投影してきた、という方が正しいかもしれません。それだけにシンボルは様々な意味合いを含まざるを得ないのです。
ということで、同じ「木」でもそれがたくさん集まって「森」となった場合には、単に「木」の複数形という理解では収まり切れない多層な意味があります。
たとえば「森」のイメージを思い起こしてください。
昼でも薄暗いうっそうとした森。一度迷い込んだらどこへ続くのか、道もはっきりしない。
もしかしたら思わぬ猛獣や魑魅魍魎(ちみもうりょう)、怪物やお化けなどが出てきてもおかしくない。
富士の青木ヶ原の樹林のように一度迷い込んだら「死」と隣り合わせてというイメージもありますよね。
しかし一方でデズニーやジブリのストーリーのように、そこに迷い込むことで新しい世界との接点が現れるかもしれない。
そして見通しも立たず道に迷う中、自らの判断と責任で自分の進む方向を決断し、行動しなければいけない。
もし上手くその森をくぐり抜けることができた時には、主人公は一つ成長を遂げているかもしれない。
つまり通過儀礼としての森。
さらに春が来れば新緑が芽生え、花が咲き乱れ、秋になれば豊かな実りをもたらしてくれる生命力の再生の森。
そして無事に森を抜け出て、明るく広がる新しい世界へ参入するときのホッとする安心感とすがすがしい喜び。
こう連想しただけで、「森」のイメージは豊かに膨らんできます。こういうさまざまな森のイメージに人間は自分の人生や生き様を重ねて文学や芸術に昇華させてきたわけです。
ここで一つだけ、ある本からの文章を紹介しましょう。
「太古の昔から受け継がれてきている人間の生の営みには、生物的にだけではなく精神的にも成長しなければならないという意志が必ず付随する。そしてそのような精神の指向性と切っても切り離せない行為が、まさに『森に入る』という行為なのである」
「・・メルヒェン(*注 メルヘンのことです。岸井)の基本構造は、通過儀礼に立脚すると言える。その通過儀礼は・・・森へ行き、そこに一定期間留まり、森を出るという行動に還元されるであろう。その意味するものは、森における『再生』のための『一時的な死』であり、通過儀礼はしたがって、森に象徴的に表現されていると言える」
(「黒い森のグリム」大野寿子著 郁文堂 P.97)
森に入り、森を抜け出る。
私たちは人生という森に迷い、森に留まり、森で育てられ、森を抜け出ることで、
今までにない、新たな広い視野と見通しを手に入れ、成長することができるのかもしれませんね。