こころの問題<15> 自立の裏には必ず孤独がある
さて、前回は思春期を迎えた子どもたちが、自立のためのロケットのエネルギーに点火して、「父なる天」から発して「母なる大地」に縛り付けようという引力に戦いを挑む様子を説明しました。
この「父なる天(神)」「母なる大地」という象徴的な表現についてはもうちょっと説明が必要かもしれません。
まず「父なる天(神)」という表現は、宗教的なイメージとしても良く見られますね。
例えばキリスト教などでも良く用いられます。
もちろん私が使っている意味は宗教的な意味ではありません。
よく「雷おやじ」とか「雷を落とされる」などという言い回しを使いますが、この場合父親を想定していると言ってよいでしょう。
もちろん母親が「雷」を落とすこともありますが、そこで意味されているのは具体的な「お母さん」「お父さん」ではなく、
いわば「父性」ともいうべきものです。
「父性」というのは、私のイメージでは「方向を示す存在」です。
イメージで言ば、風のようなもので「実態はないけれど方向はある」存在。
ですから「思想」や「理論」「価値観」「原理原則」のような精神的な方向性を示す存在です。
ある意味、強制力が伴いますが、いわゆる「衝動性や肉体的な力」で強制する「男性性」とは違い、
「幅広い見識・知識に基づいた人生の知恵」によって「こうあるべき」と方向性を示す「見識力」みたいのものでしょうか。
宗教の「神」などがそれに当たりますが、時には「罰」をもたらすこともある「厳しさ」を持ち合わせています。
このような「父なる天(神)」に従うことで、人は子どもの頃から生きる方向性を与えられます。
しかしよく考えてみるとそれは普遍性はあっても個別性はありません。
つまり建前的な一般論としては正しいのですが、「今、ここ」で生きている私たちの具体的な感情や欲望に対しては低い価値しか置きません。
ですから子どもが「こうしたい」「ああしたくい」と自分の感情や欲望で訴えかけても、「それはまちがいだ」「お前は世の中と言うものがわかっていない」というような返答になってしまうわけです。
これでは思春期の子どもたちの身体の中から沸き起こるような渦巻く感情とすれ違うことになっていしまいます。
そこで父と子の戦いが始まります。
しかし「神」としての「父」に勝つのは至難の業。
理屈では勝てないと思ったとき暴力に訴えかけてくることも。
子どもとしては「父なる神」に雷を落とされて「(やっと芽生え始めた)自分らしさを殺される」運命から逃れるために必死に戦わざるを得ないのです。
親も、子も大変な時期です。
ではそんな時「母なる大地」はどういう役目を果たすのでしょうか?
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