大切なことは絵本から学んだ ④ 「ムーミンのともだち」
私がこうしてブログを書いている、今この瞬間にも
世界では色々な出来事が起きているかもしれない。
あの国では残虐な出来事が起き、
この国では内戦を引きずっている・・・
“ぼくがラーメンをたべているとき
となりで ミケが あくびした
となりで ミケが あくびしたとき
となりの みっちゃんが チャンネルかえた
となりの みっちゃんが チャンネルをかえたとき・・・・”
と、ぼくがラーメンをたべているとき、「ぼくにとってはラーメンを食べている時間・世界」なのだけれども、
同時に現実の世界は多層的に存在しているのだ、ということに、
ふと気がついてしまった瞬間を描いた絵本「ぼくがラーメンをたべているとき」
その広がりは、自分の身の回りの世界にとどまらず、
世界中に同時展開している世界へと目が向いていきます。
ぼくがラーメンをたべているとき、
隣の国の女の子は あかちゃんをおんぶしてめんどうをみなければならないし、
その時、またその隣の国の女の子は井戸から水汲みの作業をしている。
さらにその時、また隣の国では男の子が畑の牛の世話をしている。
そしてその隣の国ではおんなのこが生きるためにパンを売り歩いている。
そしてまさにその時・・・
“その また やまの むこうの くにで
おとこのこが たおれていた”
世界中で餓死したりテロに巻き込まれたり、災害や疾病で命を落とす子どもが、
ぼくがラーメンをたべている「今この時」にもいるのだ、という厳しい現実。
そしてその倒れた子どもの遺体の上に吹く風は、地球をめぐりめぐって、
「今ここでラーメンをたべている」僕の町にも吹いているのです。
冒頭にも述べたとおり、世界では「ぼくがラーメンをたべているとき」にも
様々な出来事が同時に起こっているのです。
わたしはこの感覚を実感として感じたことが2回ありました。
1回目は大学生の時、友達と一緒にお酒を飲んでワイワイ騒いでいたのですが、後から聞くと、まさにその時間にある学生が体操競技の練習中に着地に失敗して命を落としてしまったのです。その時、大変ショックでした。自分が調子に乗ってわいわい騒いでいる時にも人が命を落とす。
それは自分とはまったく関係ないし、自分を責める必要はまったくないのだけれど、なぜか無駄に時間を過ごしていた自分を責めたことがあります。
2回目はわたしの父が亡くなった時。
病院で今息を引き取った父を見送り、看護婦さんが身体を拭いてくれている間に、母と病院の屋上へ登って今後のことを話している時です。その時屋上から見渡す情景は、とてもすがすがしく花は咲き、鳥はさえずって子どもたちの笑い声が響いていたのです。
「このわたしは父が死んでこれほど悲しい思いをしているのにも関わらず、世の中はそれとは関係なく存在するのだ」と驚くほど新鮮に、また哀しく感じたことを覚えています。
こういう感覚を昔の人は
「もののあはれ」と言ったのではないでしょうか。
そういうことを思い出させてくれた絵本でした。