マナーうんちく話499≪習慣は第二の天性なり≫
マナーには不易流行的側面があるので、時代とともに変化することは多々ありますが、今までと真逆のことが起きれば戸惑うこともあります。
和食と洋食のテーブルマナーに30年以上関わってきたものとして、最近の「嫌いなものは食べなくてもいい」という考え方には違和感を覚えます。
確かに、嫌いなものを無理に食べて、むかむかすることはよろしくありません。
生理的に受け付けないものを強制されても困ります。
「嫌いなものは食べない」ということは、決してわがままなことではなく、人生に正直に生きているともいえると思います。
しかし、幼い時に、親が家庭で、子に好きなものだけを与え、嫌いなものは残すように教えたら、その子はどのように育つでしょうか?
他に良い方法はないのでしょうか・・・。
私の幼い頃は物が貧しかった時代ですから、好き嫌いの選択はほとんどできません。
「好き嫌いはやめなさい」「だされたものはありがたく残さず食べなさい」というのが当たり前の教えのようでした。
「神聖な食べ物を残す」という行為はしてはいけないことだったわけです。
しかし現在は、食料自給率は先進国では最下位レベルの38%くらいですが、飽食の国であり美食の国であり、美味しい食べ物が豊富に出回っています。
だから嫌いなものまで無理して食べる必要はありません。
身体に必要な栄養補給の方法はいくらでもあります。
ただ人間形成の面からみればどうでしょうか。
長年ビジネスマナー研修や自立支援等に関わっていますが、物は豊かになり、便利にはなっていますが、ストレスに弱い人が増えている気がします。
加えて自己中心的な考えの人が多いように思えてなりません。
自己中心的な人が悪いとは言えません。
「嫌いだから食べない」の理屈は、「仕事も嫌いだからしたくない」などほかの行動にも拡大する恐れがあると思うのですが・・・。
もちろんすべてではありません。
嫌いなものを平気で残す人も、思いやりがあり他者にやさしい人もいるとおもいますが、ただ、飲食のマナーが素敵に発揮できる人は、知性や教養があり、人格も円満な人が多いような気がします。
しかしテーブルマナーは一朝一夕で完成できるものではありません。
縁起が良いといわれる、日本の富士山の末広がりの裾野のように、幼い頃からの良い食礼が、幾重にも積み重なって、初めて完成されるものだと思います。
その食礼の第1歩は「美しい箸使い」にあります。
美しい箸使いについては何度も《マナーうんちく話》で触れましたが、これは家庭で親から教わるものです。
親が子に間違った箸使いを教えると、子は一生間違ったままで使用することになるので、くれぐれも注意していただきたいものです。
その前に食卓をきれいにし、出来れば「箸置き」も用意していただきたいです。
テーブルに季節の花などがさりげなく活けてあれば最高ですね。
食卓について箸をとりあげるまえに「いただきます」と、ひざに両手をついて会釈することをお忘れなく。
箸使いについては《マナーうんちく話》を参考にして下さい。
箸が上手に持てたら姿勢を正してください。
背筋を伸ばし、胸を張り、かがみこまないようにしつけて下さいね。
ここはとても大事なポイントです。
お辞儀のマナーで「起立⇒気お付け⇒礼」の号令の話をしましたが、これが日常に行われていると食事の時の姿勢も自然に身につくのですが・・・。
副食は決まった分量だけ与えて、極力残さないような癖がつけばいいですね。
終わったら「ご馳走さまでした」の謝意を述べます。
好き嫌いなく、何でも出されたものを食べる人は実に気持ちいいものです。
嫌いなものを残す前に、「どうして嫌いなのか?」、その理由を聞くことも大切だと考えます。
古い考え方だと思われるかもしれませんが、私は「食べ物を残さない」ということと「偏食をおこさないこと」こそ、食礼の基本だと考えます。
「嫌いなら食べなくていい」と教えるより、体にもいいし、食材を作ってくれた人や、料理を作った人のことも考え、「一口でも食べてみて」といえたらいいですね。
勿論アレルギーのある子や病気の場合は別です。
また、子どもの頃はいやでも、大人になれば好きになることも多いものです。
いろいろ議論の余地がありそうですが、どのように思いますか?