生きたいと思える社会とは人の生き方(死に方)にケチをつける無責任な社会なのか? ~世の中は自然にあるべき姿へ~

宮本章太郎

宮本章太郎

テーマ:思考と考察・生き方を学ぶ

安楽死について語られる時、法制化の議論よりもまずは生きたいと思える社会と言われますが
生きたいと思える社会とは何なのでしょうか?

例えば終末期の癌やALSで回復が見込めず死にたいと吐露する場合
本人にとって生きたいと思える社会かどうかなんて関係なく
治療して回復し、日常生活を普通に送れるように復帰することではないでしょうか?
社会がどういう社会かなんて関係ないと思うんですね。

生きたいと思える社会かどうかではなく
まず治療して回復したいわけです。
それが叶わないから死にたいと心情を漏らすのであって
生きたいと思える社会を目指して取り組んだところで
本人の病態が回復しないままでは生きたいと思える社会かどうかなんてどうでもいいこと。

鬱みたいに絶望してるのですから
そんな簡単に生きたいなんて思えませんよ。

自分の病状や周囲の人たちへの負担を考えるから苦しむのであって
社会が生きたいと思えるかどうかなんて関係ないと思うんです。

だからといってその取り組みは必要だと思いますよ。
ぜひ実現に向けて私も何か力になりたいですし
生きたいと思える社会の実現は大事なことだと思います。

ただ問題はそんなことではないと思うんです。

本人がもう良いと言ってるんだから
その意志を尊重することだと思うんですね。
尊重するからといって、決して死を推進することではないですよ。
ただ意志を尊重するだけ。
望んだからといって快諾し、積極的に死なせようとすることではありませんし
何とか努力して思いとどまるよう向き合わなければなりません。

だけどもね、もう死にたいと吐露する人に対して
まず生きたいと思える社会だなんて無責任だと思うんですね。

最初にも申しましたように
そもそも生きたいと思える社会って何ですか?ってこと。
それはどうやったら実現できるのでしょうか?

誰にとっても生きたいと思える社会なんてそんなことは実現できないでしょうし
(そんな夢みたいな社会なんてないでしょう)
出来もしないことを無責任に言い放って生きる苦痛を与え続けるということに対して
私は無責任ではないかと感じるのです。
(だからといってそう語る人を悪く言ったり本当に無責任だと思ってるわけではありません。
いろんな考えが必要であることは私の根幹的な考えでもあります)

一つ考えてみたら、もし私の親が回復の見込みがなく、毎日生死をさまよってるような状態で
もう十分に生きた、頼むから楽にさせてくれと心から望んだ場合(懇願された場合)
果たして私に生きるように説得し、引き止められるかと言われたらその自信はありません。
本当に心苦しいですし、何とか努力はしますけど、きっと最後には受け入れるのではないでしょうか。

目の前でもがき苦しんでいる姿を見て
絶対に死なせない、それでもまだ生きろと何も出来ないくせに
無責任に言い放つような酷い仕打ちが出来るかどうか
私には自信はないですね。

私自身の場合でもそうです。
本人がもう良いと言ってるんだから、どうして生きさせようとするのでしょうか?
死ぬことって犯罪なの?死んだらいけないの?何としても生きなければいけない?
不死の命じゃないんですから、そんなことはどう頑張っても叶わないのに。
もはや自分の意思もなく、ゾンビになってでも生きろというのでしょうか?

生きたいと思える社会。
確かに本当に大事なことだと思いますよ。
ぜひ実現していきたいと思います。

でも出来もしないことを無責任に言い放つなら
それこそその前に何も出来ない人間が出来ることといえば
本人の意志を尊重することではないでしょうか?

本人の意志を尊重することこそが私たちに出来る唯一のことだと思うんですね。
(だからといって死を推奨することではありませんよ)

正直とり溜めていた思いをザッと書き連ねただけで
まだ整理も不十分であり、言葉も足りなければ言い足りないこともまだまだたくさんありますし
今回で全て私の思いや考えを丁寧にまとめて書けたわけではありません。

誰かを批判したいわけでもなければいろんな考えが必要であることも理解しています。
どれも大事な考えだと思います。
いろんな考え方があって尊重しますよ。

ただしょせん現場は現場だと思います。
世界のどこかにいる誰かや隣町の誰かが突然あなたの元にやって来て
あなたを救ってくれるのでしょうか?あなたの代わりに問題を解決してくれるでしょうか?

そこに従事している人の体験こそが現実なのであり
直接関わりのない人間が唯一できること。
それがどのような話の内容であったとしても、私は本人の意志を尊重することだと思いますね。
(尊重するとは希望通りにそのように実行することとは違いますのでご注意ください)

他にもだったら本人が重度の認知症の場合はどうかなど
考えられる課題も一様ではないので簡単に議論して解決できるような問題ではないですし
だからこそ色んな人の様々な考え方が必要なんだと私は思うのです。

一人ひとりの考え方に対して善悪の議論をしても(判断して白黒つける)
それは意味のないことでありますし
様々な考え方の中で本当にそれが必要なことだと世の中が動き始めたら
何も意見をした個人を責めなくても自分の意思とは無関係に世の中は勝手に回っていくのですから。

それにしてもどうして生きなければいけないんでしょうね?
どうして死んではいけないんでしょうね?
無理にでも生かされ続けなければならない理由って何なんでしょうか?

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宮本章太郎
専門家

宮本章太郎(心理カウンセラー)

京都カウンセリングラウンジ

心の健康のみならず、メンタルに関連して起こる様々な身体への影響や健康に関する知識が豊富ですので、うつ対策や不眠症の改善といった、総合的な健康法についても心理学の観点からアドバイスと情報提供が可能です。

宮本章太郎プロは京都新聞が厳正なる審査をした登録専門家です

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