表現の不自由展は開催するべきか中止するべきか ~表現の自由でどこまでの表現が許されるのか?~

宮本章太郎

宮本章太郎

テーマ:時事・世事世相・所感・雑感

政治や報道に関しては言論の自由。
そして芸術に関しては表現の自由とよく言われますが
言論の自由はともかく
表現に関してはある程度の規制やモラルは必要で
何でも自由がまかり通ってはいけないと思います。

どこまでの表現が許されるのかについては判別が難しいところですが
もし何でもかんでも表現の自由が認められるとなると
“人の死”すらも表現として認められることになってしまうんですね。

ここで考えなければならないのは
芸術と称すれば、何でも自由が認められるのか?ということです。

もし表現の自由として人の死が認められるなら
その行為が殺人であっても許される(認められる)ということになりますし
たとえ被対象者の積極的な同意があったとしても
本当に表現の自由として人の死(殺人)を認めても良いのでしょうか?

そしてまた、表現の自由としてなら自殺も許されるということになりますよね。

本人に自殺願望があるわけではなく
本当に純粋に表現の自由として、自死を芸術として表現したいということであれば
それも認めてしまうことになってしまいます。

また、ゲノム編集も科学技術の芸術として捉える人が現れる恐れもありますし
もしそうなればそれも表現の自由として認めてしまったら
考えただけでも恐ろしい未来が待ち受けていることでしょう。

高身長の子が欲しい、青い目をした子が欲しいなど
ゲノム編集技術が表現の自由(その手段)として扱われ
他者という別の人格者までが自分の意のままにデザインされるような事態が
すでに“表現者”によって行われてしまうような時代です。

それでも皆さんは“表現の自由”を、どこまででも何でも認めてしまっても良いと考えますか?

言論の自由と同じように
表現の自由もおもむろに規制されるべきではないと思いますが
だからといって何でもかんでも表現の自由を訴えて認めてしまうことが
本当に正しい行為なのかどうかはよく考えてみる必要があります。

単にそれは芸術じゃない表現の自由じゃないと
個人的な感情や嗜好によって自由が抑圧されることは避けるべきですが
言論の自由と同様、よく表現の自由と言われる中にあって
同じように自由を認めてしまう(許される)ことが正しいのかどうかを
改めて認識していかなければならないのではないでしょうか?

人の死については極端な例にせよ
それでも表現の自由について許されるべきことと許されるべきではないことがあるのは
私は当然のように思うのですが皆様はどのようにお考えでしょうか?

確かにその線引きは難しいところではありますが
何でも自由だからといって認めるべきではないように思いますし
表現者も人に不快感を与えるものだったり常軌を逸するような表現に関しては
自己の意識を改善していく必要があるのかもしれません。

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宮本章太郎
専門家

宮本章太郎(心理カウンセラー)

京都カウンセリングラウンジ

心の健康のみならず、メンタルに関連して起こる様々な身体への影響や健康に関する知識が豊富ですので、うつ対策や不眠症の改善といった、総合的な健康法についても心理学の観点からアドバイスと情報提供が可能です。

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