正々堂々と自分を生きる
元来お寺というのはいつでもお参り出来るよう、常に開放されていて然りですが
時代と言いましょうか、用心のためにも早めに門を閉め
夜遅くの参拝を制限するようになって来ました。
仕方ないとは言え、これでは何のための開かれた宗教なのか
元々の宗教の思想とは反する事をやっているわけです。
(批判やだからいけないと言ってるのではありません)
いつ何どきでも迷える人を救うのが宗教ではないのでしょうか。(救える状態にある事)
門を閉めていてどこで誰が苦しんでるのかわかりますか?
人々を救うはずの者が自分の身を守ってしまっています。
そもそも宗教とは心でする(向き合う)ものです。
何かこうしなければと決まった形や決まりもなければ
教えに背けば誰かから制裁を受けるものでもありませんし
何を置いても自由である事が大前提ではないでしょうか。
(その中で節度を守ったりするための教えがあるだけ)
だからといって何の防犯対策もしなければ不用心ですし
安全管理に務めるのは必要な事であって仕方ありません。
自由という思想、つまり理想と現実は違うわけですね。
そして違うと同時に別のものであると考え
何でも善悪の判断で物事を見るのではなく
事の真相をもう少し深く考察してみる事によって
世の中そう苦痛に満ちた事ばかりではない事にも気づけるのではないでしょうか。
すなわち分別の付け方こそ生きる技術に繋がるのかもしれません。
いつどんな時でも開かれてなければならない門戸であったとしても
人が管理し住まうような所では
理想や理屈ではなく現実に則したやり方が最善だという事。
いくら正論であったとしても
こうでなければならない、こうしなければいけないといった考えは
必ずしも最善であるとは限らないという事を
私たちは学ばせて頂く必要があるように思います。