将来が変わるまで、いつまで待ちますか?
宗教と聞くと、私たち日本人は広く仏教をイメージするかもしれません。
広く言えばキリスト教やイスラム教、オウム真理教のようなものまで皆宗教ですが
一口に宗教と言っても様々で、その中でも宗派や派閥など細分化されるくらい
多岐にわたって様々な概念が存在します。
しかしどれもこれも言い伝えや教義だったり、おとぎ話や伝承話
あるいは罪滅ぼしや救いだったりと
何か形式があったり教訓(訓戒)のようなものがあり
それに従わなければならない(そうしなければならない)ものとしての印象が強いのではないでしょうか。
(儀式や修行もそうですが、しなければ救われないというようなイメージ)
悪魔や鬼、天国や地獄など、死んだらどうなるのか
救われるためには生きている間に良い行いをしなければならないといった
およそ今まで私たちが抱いて来た宗教観は、実は本来宗教の持つ意味ではないのです。
宗教戦争や宗教弾圧、ISテロや地下鉄サリン事件など
宗教が持つ思想にはどこか危険思想が含まれていたりするので
あまり良い印象はなく、宗教なんてなかった方がいい、なくなればいいと考えそうなものですが
なぜかいつの時代にもなくなる事なく、また、誰かがなくそうとするわけでもなく
現在でも存続しているのはなぜでしょうか?
それは宗教は私たちの生きる智慧であり、人類の歴史そのものだからです。
したがって智慧(人類の英知)や歴史がなくなる事はありません。
(消そうとしても消せない。つまり消える事はない)
宗教とは天国とは地獄とは、死んだらどうなるのか
悪事を働くと地獄に落ちるとか、救われるためにはどうしたら良いのかなどを説いてるのではなく
人がより良く生きるための智慧を結集したものなんですね。
ですから宗教は信じるとか信じないというようなものではなく
お釈迦さんや神様といった、何か大いなる存在による導き(ありき)などでもありません。
人々が暮らしの中で培って来た、まさしく生きる智慧であり、歴史であり、そして教えであり
開祖のような誰かが代表して(先頭に立って)形作られたものではないのです。
(体験や学びによってまとめたり(編集や要約、集約)はしても、法人格を有したり与えられるようなものではない)
ここを履き違えて宗教をイメージだけで捉えてしまうと
自らより良く生きるための智慧を台無しにしてる事になります。(智慧や学びの放棄)
これが(智慧を活かさない事)不幸になる元凶になる事から
戒律に従わないと(教え通りに良いとされる行いをしないと)
罪人扱いされたり地獄に落ちるなど本来の宗教とは違う、脅しにも似た偽りの宗教観に苛まれてしまうのです。
私たちはどのようにすればより良く生きられるか?
これを説いたものが宗教であり(もちろんそれだけではありませんが)
人類が今まで築き上げて来た歴史そのものであるという事がお分かりいただけたでしょうか?
何でも人に言われたままを信じ、自分で考えない事が不幸を呼びます。
私が生き方を学ぶと銘打って取り組んでいる心理カウンセリングも
そういう意味では同じ、本来の宗教の一つの形なのかもしれませんね。