自閉症の心理学 ~誰も理解者の居ない、孤独という苦しみ~
知的障害や自閉症など重度の障害者に対して
障害者は不幸なだけで生きる価値はないという考えがあるようです。
相模原で起きた障害者施設殺傷事件の加害者に共感する考え方とでも言いましょうか。
世の中にはいろんな考え方があって然りとは言うものの
そういう考え方をする人に対しては、失礼ながら見識の低さを感じますし
私に言わせれば、死んだ方が幸せだなんて思想の人こそ
よっぽど“障害者”のように思えて仕方ありません。
それで自分は健常者だとか言って、障害者はこの社会に必要ないように考えてるのですから
これではどちらが本当に障害者なのか、その考え方のどこが健常なのか
疑問を感じずにはいられないのは私だけでしょうか?
言葉は悪いかもしれませんが、さすが単細胞の狭い見識といったところ。
この世の中(宇宙・世界)がどういう世の中か知ってるんでしょうか?
もちろん知らないからこその見識だと思いますが
とても狭い世界に生きる“偽りの健常者”だと思えば、何ら不思議な事ではありません。
障害者は不幸なだけで社会に必要ないと言うなら
それこそ喫煙者(ニコチン依存)や肥満ってだけでも障害を抱えてるのと何ら変わりませんし
この社会には必要ないと言っても良いのではないでしょうか。
自分は健常者だと豪語して思想に障害を抱える真の障害者であるあなたこそ
社会から居なくなればいいのではありませんか?
私がこれ程汚い言葉を使って、しかもこのような場を借りてまで罵るのは
心の奥底で煮え切らない憤りを感じるからです。
コラムを読まれて不快感を与えるのは申し訳ないと思いますが
私も辛抱が足りず、どちらかと言うと自閉傾向気味というのもあり
何も障害者の味方とか偽善者振ってではなく
ただ穏やかで居られなかったというのが正直なところです。
このままだとただ哀れなだけで不愉快なままなので
私の考える障害者(障害を抱えるという事)とは何かをお話しておきますと
そういう何かしら障害を抱えてる人が居るからこそ
健常者だらけという同じカテゴリーからだけではわからない
大切な何かを気づかせて頂き、そこから学ばせて頂けるんだと思います。
“障害”とは物事や出来事に対しては
「困難な」(または「立ちはだかるもの」)といった意味合いも込められています。
人生に何の障害もなく、スムーズに寿命を全う出来るなんて事はありません。
順調なようでも突然自然災害や病気に襲われたり
犯罪に巻き込まれるなど予期せぬ事態が降りかかるのです。
その中にあって何も学ぶ事なく、何も気づく事なく
目の前にある事象(現実)を自分の尺度だけで推し量ってしまうのは
困難に気づけない(予期出来ない)“不幸”ではないでしょうか。
私は障害を抱える人が居るからこそ
健常者という自分たちだけではわからない困難に気づかせて頂けるのだと思います。
でなければ同じ思想を持った集団や人種しか居なければ
異文化を受け入れられなければそこから争いも生じますし
様々な障害として自分たちの身に降りかかるでしょう。
自分とは違う人から学ばせて頂く(気づかせて頂く)事によって
結局は自分自身が幸せな人生を生きられるんじゃないですか?
重度の知的障害を抱える人は意思疎通が困難なので
何を考えてるのかわからず怖かったり不幸だと思ってしまうのはわかります。
でも本当は何を考えてるのかわからないのではなく
自分がわかろうとしてないだけ。
だったら自分の子供や親、夫や妻といった身近な人は然り
健常者の他人だったら何を考えてるのかわかりますか?
健常者同士、物言える人だったら誰とでも意思疎通出来ると思ってますか?
他人の考えてる事なんてお互い意思を通わそうとしなければ
相手が誰であっても微塵もわからないのではないでしょうか?
それは健常者や障害者だって同じ。
私はそこに大きな違いはないと思いますし
健常者や障害者の区別なく、人に感謝し、尊重出来る人こそ幸せなのだと思います。