原発事故が起きた際の避難計画に対する矛盾点 ~人ではなく自分を見れば問題の矛盾にも気づく~
私が気になっている事で、「何か(ナンカ)」という言葉があります。
学生さんや小さいお子さんなど、特に若い人がよく言う言葉なんですが
日常生活でもテレビ番組でも、男女ともに性別を問わずよく使われます。
そしてそういう言葉遣いをしている事に自分では気づいてません。
(気づいてても正さなければと意識する程ではない)
私も同じく、「別に」とか(「~とか」もそうですが)もよく言いますし
人の口癖についてやそれ自体がどうのというわけではありませんが
話の中で事ある毎に「何か何か」と連呼する人も居ますし
何かとは何なのか?私はここが気になるわけです。
そもそも「何か」という言葉遣いには、自分でもわかってないという事を意味しています。
何だかわからないけどといったニュアンスです。
何かよくわからないけどきっとそうだろう、そうかもしれないという話を前提に
不確実な内容の話を展開する時によく用いられ
この「何か」を使う頻度が多ければ多いほどあまり中身のない
取り留めのない話の内容である事を意味しているのです。
しかしそんな自分でもわかってない、する必要のない話ならしなければいいのですが
そこに答えなり手がかりなり何か得たい場合によく使われるのでしょう。
ですから心理カウンセリングや悩み事の相談でも
「何か」という言葉はよく用いられます。
(だからどうという事ではありません)
ただここで不思議なのが、この言葉は若い人ほど多く使われ
ある程度年齢の高い人はあまり使わないという事。
同じような言葉は使っても、なぜ「何か」という言葉でなければならないのか。
他に言い回しでも何でもあるのに、なぜか「何か」でなければならない理由や根拠は何なのか。
もしかするとここに、問題解決のいとぐちや何か
何かヒントが隠されてるのかもしれません。