汝の哀しき性(さが)に泣け
久しぶりの記事の更新です。初夏のお天気が続きますが、みなさんお元気ですか?この時期、木々の緑を見ているとなんだかうれしくなってくるような気がしますね。冬の間はまるで枯れたような姿を見せていた木々が、春の気配を感じるとなぜか不思議に一斉に芽生え始め、あっという間に花を咲かせてくれます。こういう様子を毎年毎年見ていると、植物というものが持つ生命力という奇跡を実感せずにはいられません。
しかしこういう話を書くと、昔お会いしてお話を聞かせていただいた方の話が思い出されてなりません。その方は長く鬱状態が続いていて、ようやく改善の兆しが見えてきた方でした。その方をお話をしたのも確か春だったと思いますが、私が「春になると木々が芽生えてきますね」という話をすると、その方はこう言われたのです。
「私の家も田舎なので庭にたくさんの盆栽が置いてあります。そしてその盆栽に毎日水をやるのが私の日課でした。今も毎日水をあげているので、盆栽から新たな芽生えがあるとうれしくなります」
そう言われてから彼はこう続けました。
「でもそういう気持ちになれたのは最近です。以前私の調子がもっと悪く、苦しい毎日が続いていたころ、この盆栽たちが目障りで仕方がありませんでした。そして毎日水をあげるのだけれど、できるだけたっぷりと水をあげ続けたのです。」
「なぜそんなに水をあげ続けたかと言うと、その頃は木々の生命力など感じる余裕もなく、むしろその湧きだすような生命力が苦しくて仕方がありませんでした。」
「だから私が水をあげ続けていたのは、木々を潤すためではなく、必要以上に水を注ぎ込んで根腐れを起こして『木々をからすため、木々を殺すため』に水を注ぎこんできたのでした。そのぐらい生きるということに苦しみを感じていたのです」
このような内容のお話しをお聞きして、改めて鬱状態の苦しみの辛さを実感した覚えがあります。
萌出ずる春の生命力は、それを受け取るこちらに十分な受け入れいる余裕があってこそ、喜びと感じられます。
この春の季節を、ため息と苦しみに耐えながら過ごされている方もいらっしゃることでしょう。世間はGWを浮かれていますが、この時期じっとやり過ごしている方々もいることを忘れてはいけないと思っています。
最後に、先にあげた男性はこうも言われていました。
「木々に水をあげるには良いのだけれど、毎日あげると木々は毎日水をもらわなくては耐えられないようになってしまいます。本当はその木が必要な量を必要な時にあげる方が、本来の生命力が湧き出てくるのです。だから私は今は3日に1度、水をあげるようにしています」と。
水をあげるのも、「こちらが水をあげたいから、あげる」のではなく、あくまでも相手の木々の立場に立ったあげ方をするのが大切なのかもしれません。あまり励ましたり、関わりすぎると返って依存させてしまい、自分の力で立ち上がるエネルギーを奪うことにもなりかねません。一時期の燃え上がるような新緑もいいですが、その前に冬枯れしたような長い期間があり、その時期をじっと耐えてきたからこそ、今の春の新緑がある事を忘れないようにしたいものです。