マナーうんちく話544≪薔薇で攻めるか、それとも恋文か?≫
明治新政府は諸外国からいろいろなものを吸収しましたが、多くはイギリス、ドイツ、フランスに倣うことにしたようです。
中でもイギリスから多くのことを学んでいます。
当時のイギリスは世界屈指の先進国であり、しかも王制で、天皇制を布いている日本にはとても都合が良かったのでしょう。
ただすべてをヨーロッパの物まねとなればいろいろなところに支障をきたします。
マナーしかりです。
長い伝統を有す日本の礼儀作法にも大きな影響が生じました。
装いもそうでしょう。
政府高官の奥様方も、着物から競って洋装をとりいれたようで、鹿鳴館と呼ばれた社交場では、舞踏会の様子が映画や小説で描かれています。
立ち居振る舞いも大きく変わるでしょう。
加えて洋食のテーブルマナーもそうで、英国式の作法が採用され日本での晩餐会では英国式のマナーが定着したようです。
一方陸軍ではフランス式が採用され、今の日本でも洋食のマナーには、イギリス式とフランス式の二通りの作法が存在します。
例えばフォーク・ナイフの扱い方や、終わった後の置き方が異なるので、理屈を理解していないと迷います。
ちなみに周波数の違いがあるのも、発動機の仕入れ先が関東と関西で異なったからといわれています。
明治になり電燈の恩恵を受けるようになるわけですが、発動機を輸入しなければなりません。
その際東京はドイツ製で50Hzの発動機を輸入し、大阪は60Hzのアメリカ製を輸入したため、関東地方と関西地方に違いが生じたわけです。
この様に輸入する国により多少異なることもありますが、新しい文化でいい刺激が得られたのではないでしょうか。
しかしマナーの世界では大混乱をきたすものもあります。
例えば雛飾りですが、日本では左上位ですが、西洋は右上位です。
従って雛飾りの際、西洋式を採用すれば男雛と女雛の位置が従来とは逆になります。
明治になる頃まで、男性と女性が並んで座ったり、歩く文化は日本にはなく、雛飾りが、男女が並ぶ大変貴重な存在です。
このような貴重な伝統文化を、変えるには相当迷いがあったのではないでしょうか?
日本の伝統をかたくなに守るか?
最新の国際基準に従うか?
難しいところです。
さらに今までは男性優位だったのが、レディーファースト文化が入ったため戸惑うことも多かったと思います。
加えて弔事における装いです。
明治以前は葬儀の装いは、喪主の喪服は白色だったものが、明治になり黒色になりました。
まだあります。
暦です。
明治5年までは太陰太陽暦だったものが、明治5年12月3日に突然太陽暦(グレゴリオ暦)にかわったわけですから、世の中大混乱だったと思います。
なにしろ明治5年12月3日が明治6年の正月になったわけですから・・・
勿論、洋服、洋食、喪服、暦、右上位、レディーファーストなどは文明開化を謳歌できる一部の上流階級の人だったと思われますが、当時のマナーの世界は大混乱したことでしょう。
そもそも今まで鎖国をしていて、急に欧米との統一を図るということは、相当無理があったのではと思います。
上流階級の仲間入りも容易ではなかったということです。
従って1868年の明治維新は、日本人が、それまで経験したことのない大きな環境変化をもたらしたと思います。
特に武士階級に甘んじていた人にとっては・・・。
刀も「ちょんまげ」もなくなります。
不平不満もたまるでしょう。
それほど維新後の社会情勢は紛糾していたということです。
ではどうする。
日本人は実に賢い生き方をしたと思います。
「和魂洋才」という言葉があります。
日本固有の精神を大切にしながらも、欧米諸国から優れた学問や知識や技術を積極的に取り入れ、両者を巧みに融合させ、発展させるということです。
ちなみに私は和食と洋食のテーブルマナーに30年以上関わっていますが、それぞれ素晴らしいところがあります。
それらを融合させたヒラマツ式テーブルマナー講座を開催しています。
一般的マナーしかりです。
今では「そうあってしかるべき」というマナーが定着していますが、マナーとは本来、洋の東西を問わず感謝・尊敬・もてなしがキーワードになっているわけですから、基本さえ理解すればそれほど難しいことはありません。
それにしても明治維新の頃の日本には、和魂洋才を唱えた福沢諭吉を始め、「偉人」と呼ばれる人が多かったですね。
羨ましい限りです。