マナーうんちく話509≪「女しぐさ」と「男しぐさ」≫
夏祭りたけなわですが、七十二候では、この時期は大雨が降る頃です。
そういえば、ゲリラ豪雨があちらこちらで発生していますね。
「夕立は馬の背を分ける」と言われておりますが、大きな身体で力持ちのお坊さんに例えられる入道雲は、横に広がらないから局地的な大雨になるわけですね。しかし恵みの雨は歓迎ですが、大きな被害をもたらすゲリラ豪雨は勘弁願いたいものです。
不安定な天候が当分続く気配ですが、間もなく「立秋」です。
暦の上では、秋がすぐそこまで来ています。
日本は四季が明確に分かれている国ですから、季節の変わり目には、季節の終わりや、新しい季節の始まりを表現する季語が沢山あります。
今頃でしたら、「夏の果て」とか、「秋近し」、あるいは「秋隣(あきとなり)」という季語が有ります。
ここ数日でしょうか、夕方・朝方になると少し涼しい風が吹き、しばし扇風機やエアコンの存在を忘れることが有り、「夏の果て」「秋近し」「秋隣」を実感できます。
ちなみに、「夏の果て」は過ぎ去っていく夏の名残惜しさが感じられますが、「秋近し」は、あくまで暦の上での表現になり、どちらかと言えば事務的な感じがしませんか?
そして、「秋隣」は、ヒグラシが鳴いたり、朝夕涼しい風が吹いてきたり、入道雲からうろこ雲に変わったりして、五感をフル活用して、秋の到来を感じる情感ではないでしょうか。
そして、この時期になると岡山の桃が最盛期を迎えます。
スイカも今が旬です。
暑い最中、縁側に腰を掛け、夜空を眺めながら豪快に食べたスイカに格別な思いを抱いている方も多いと思いますが、実はスイカの旬は立秋を過ぎた頃になりますので、季語は秋になります。
今は夏の風物詩から消え去りましたが、昔は浴衣を着て、団扇を持って、夕涼みをしました。家の中ではなく、外に出て、涼しい風に当たって涼をとるわけですが、結構隣人とのコミュニケーションがあったような気がします。
線香花火をしたり、蚊取り線香をたいたり、隣人と世間話をしたりで、夕涼みの時間は、とてもゆっくり、のどかに過ぎた思い出が有ります。
時代の流れが慌ただしく、早くなった今では、ゆっくりと時が流れることはなくなりましたね。
しかし、「夏の果て」や「秋隣」や「秋近し」のように感性がとても豊かで、美しい日本語は、全てゆったりとした時間の中で生まれたものだと思います。
また、「秋深き 隣は何をする人ぞ」では寂しいですね。
ところで、「隣の芝生は青い」と言う諺が有ります。
西洋では、芝生は貴族のステータスと考えられていますので「芝生」になりますが、日本的な表現ですと「隣の花は赤く見える」になります。
他人の芝生は、自分の芝生と大して違いはないのに、なぜかよく見えて羨ましいと言う意味です。
では、なぜそうなるか?と言えば、青い部分しか見えていないからです。
つまり、芝生を常に青々と保つには、絶え間ない努力や創意工夫や知恵が必要ですが、そこまでは理解できていないから羨ましくなるわけです。
さらに、緑に保つために犠牲になっている物が有るかもしれません。
色々と表面には出てこない裏事情が有ると言う事を、理解することが大切です。
加えて、他人に誇れる長所を身に付けたり、趣味を持ったりして、自分磨きに励めば、人が羨ましくなることは無くなります。
これとは逆に「我が仏は尊し」と言う諺が有ります。
自分の考え方や自分の持っている物が、他の物より優れていると言う意味です。
両者の差は極端ですが、皆さんはどのタイプでしょうか?
いずれにせよ、自分磨きには励み自信を付け、そして、他者に対しては謙虚でありたいものですね。