自分では気づかない、過保護という名の虐待 -どこまでが過保護なの?-
これは私昔から思ってたのですが
今のこのご時世、世には様々な知識や情報が豊富に溢れていて
ちょっと調べれば何でも分かるような時代です。
そんなすぐわかるような知識を
いちいち個人が一から勉強しなくても(勉強させなくても)
もっと専門性を磨けるような教育方針に変えていけば良いと思うんですね。
勉強なんて読み書きや計算など
社会に出ていくための最低限必要な知識を備えておけば問題ないでしょうし
あとはコミュニケーション能力など
実践的な教育のみで十分でしょう。
その他の教育は専門性を育て上げるような教育で良いのです。
何も個人個人が同じレベルの教養を備えておく必要はありません。
何せ学習は自分で調べて勉強できる時代なのですから。
知りたければ(学びたければ)自分で勉強すれば良いんですね。
わざわざ学校で皆同じ水準の教養を身に付けさせる必要はないのです。
もちろん最低限の教育は必要だと思いますよ。
社会に出て何にもわからないでは困りますから。
他には基礎体力の向上のために
運動機能の強化とスポーツなどは大切ですね。
そういった基礎的な教育以外には
特に難しい知識を皆同じ水準の一律に、均一に教え込む必要はないと思うんですね。
むしろこうした学歴目的の教育方法では
教育格差(知能差別)の問題につながってしまいます。
現在でも未だに無意味な受験戦争の
高学歴目的の学歴至上主義社会がはびこっている現状には
いくら苦言を呈しても通じない、頭の固い教育論に対して情けなく思います。
学歴や知能指数だけ高くても身につけたものを社会に活かせなければ何の意味もありません。
いつまでも古い時代の教育方針のままではいけないんです。
働き方改革とともに、教育改革にも本腰を入れて乗り出す時期が来ているのでしょう。
これでは学歴という壁が邪魔をして
せっかく持って生まれた才能や知能を発揮できる機会を奪ってしまう事態にもなりかねません。
高教育水準、高学歴社会のせいで、個性豊かな才能の芽を摘み取ってしまうことになるのです。
(いわゆる落ちこぼれを生み出しやすい社会に)
ですから本当に学んでおくべき事柄や教科のみを修得し終えたら
これからはそれぞれが自分の興味のある研究分野の道に進んでもらい
専門性を磨いてもらう教育方法に転換していくのはいかがでしょうか?
自分が知りたければ(学びたければ)、わざわざ無理に学校に通わせて修得させなくても
自分の意志で自ら学び始めるはずです。
人によっては無駄な(無意味で不必要な)知識を無理やり教え込まされるだけで
その時間に無駄な労力を割くだけになってしまいます。
今の時代学校教育のみで、あらゆる知識を必ず修得しておく必要などないのです。
学習などはいくつになってからでも学べるのですから。
本当に必要なことは何なのか?
教えたほうが良い(覚えておいたほうが良い)こととは何なのか?
教える者のほうがよく考えてみる必要があるでしょう。
教育とは受験戦争を乗り越えた末に学歴を獲得することではないはずです。
今一度真に教育というもののあり方を考え
時代時代に合った教育方法に改革していく必要があるのではないでしょうか?
皆さんもじっくりよく考えてみてください。