正々堂々と自分を生きる
私は人の死についてはよく考えることがあります。
考えている中で、人の死はいつなのか?
何を持って人の死と言えるのか?
どこからが人の死なのかは難しいところです。
死についての定義は既にいくつかありますが
一般的によく知られているのは心臓などの臓器の機能停止。(身体の死)
そしてもう一つは脳死です。
その両方を持って死と言えるのかも知れませんが
例えば身体の死で考えられるものとして細胞の死(壊死)があります。
ところが一部の細胞が壊死したとしても他の細胞は生きてますし
壊死した細胞をそのまま放置して命に危機が及ばなければ
人はそのまま生き続けることができます。
ですから細胞の死は人の死ではないと言えるでしょう。
しかし人体を構成するすべての細胞が死滅すればそれは人の死だと言えるので
細胞の生死は人の死の定義としては相応しくないことがわかります。
だったら脳死はどうでしょうか?
脳の活動は停止していたとしても
電気信号さえあれば筋肉や体は動きますし
まるでまだ生きているような反応を見せるわけです。
では体が動いている(動く)からといってその人は生きているのかと言うと
これもまた難しいところです。
体は動いても脳は死んでいるので、生きてる時のように人として活動するのはまず不可能でしょうし
この状態でも生きている(まだ死んでいない)とするなら
電気信号さえあれば人は死ななくなってしまいます。
そして脳の死といっても電気信号さえあれば体のように再び動き始めるのか?
つまり復活することができるのかと言うと
これまた体の死と同様に不可能だと言えるでしょう。
ただ人の活動は電気信号であり、いわゆる一般的に人が死んだ状態では
外部からいくら電気信号を与えたとしても(送ったとしても)
生きてた時のように再び動き始めることはありません。
つまり電気信号を受け付けないわけです。
そもそも人はどうやって電気信号を発生させているのか?
その発生源は何なのか?
脳が死んでも体は動きますから(電気信号を受け付けない状態は別)
脳が電気信号の発生源だとは言い難いでしょうし
脳が電気信号の発生源であったとしても
その電気信号はどこから生まれてくるのかはわかりません。
科学的な話から逸脱して言えば、この宇宙に私たちを活動させている何かが
つまりマザーブレインのようなものでも存在するのでしょうか?
そのマザーブレインから発せられる電気信号を受け取って私たちが活動しているのだとか。
いずれにしても人の死についての線引きは難しく
現在用いられている定義によってしか判断できないのかもしれませんね。
しかし私はここに、人の命のつながりを感じるのです。
死の定義によって個人としては死を迎えますけど(死の状態になる)
どこからが本当の死でどこまでが生きているのかはとても明確に答えられるものではなく
個体としては死んでしまうだけで、こうして命はずっとつながっているのだと思うんですね。
(魂という形で続いている)
ただここで一つの答えのようなものとして言えるのが
私は「意識」の有無ではないかとも思うのです。
意識と言っても全体意識や潜在意識(無意識)など様々ありますが
ここで私の言う意識とは個人レベルでの意識です。
つまり自分の意思とでも言いましょうか。
この個人としての意識が完全に消失した状態(意思活動の停止)が
私は一つの人の死と言っていいのかもしれないと思うのです。
もちろん現在定義されている生死の判断を前提とした上でのことですけど。
人の生死については私たちはどこから来たのか(生まれたのか)
そして何のために生まれて活動しているのかという根源的な考察になりますので
きっと疑問が尽きることがないと思いますが
これからまだまだ人の死について向き合っていきたいと思います。