汝の哀しき性(さが)に泣け
新年になり、しばらく経ちました。また日常の時間と生活リズムが戻ってきましたね。
前回のコラムでは「円環の時間」「直線の時間」「(私の考える)生の時間」などと考えてみましたが、時間にはこれら以外にも様々な側面があるようです。
たとえば「俗なる時間」と「聖なる時間」。
エリアーデと言う人が言ったと記憶していますが、まさしく日常生活の「俗なる時間」に対して、お正月などの「聖なる時間」があります。またE・リーチと言う人は、昼の「俗なる時間」に対して、夜を「聖なる時間」と指摘しています。
いずれにしても「目をさまして意識的に送っている日常的時間」と「特別で非日常的な無意識の時間」があるわけですが、その二つは全く分離しているわけではなく、その両者を結ぶ働きをするものに「夢」があります。
新年だから「初夢」というわけではありませんが、今日は「夢とはなにか」「夢とどう関わればよいか」について簡単にお話ししようと思います。
二つの時間に橋渡しをする「夢」
「夢」といっても「あなたの夢は?」という将来への希望などではなく、毎日夜に見ている夢のことです。私はほぼ毎日枕元にノートを置いて「夢日記」とつけ続けていますが、最近やたらと印象的な夢を見ることが多いのです。
「夢」というのは、「自分自身の心の深み、無意識からのメッセージ」だなどと言われます。普段気づくことなく自覚できていない状況を「おいおい、今こういうことが起きているぞ」とか「自分では気が付いていないけれど、このままの生き方だとこういうことになりかねないぞ」などと自分から自分へ送る手紙みたいなものなのです。
親切な(?)夢になると「今自分では気が付いていないけれど、実はこういう状況にいるんだ。で、このまま気が付かずに生活していたら、きっとこういうこと起きるだろう。だからこういう考え方や行動をとった方が良いぞ」と教えてくれる場合もあるのです。
夢にヒントをもらって、自分の目の前に待ち受けていた落とし穴に気づかされたり、道に迷った曲がり角で目的地につながる道を見つけることができればこんなに助かることはありません。夢というものは、上手くつきあえばなかなか役に立つものなのですよ。
イメージで伝えられた内容を言葉にして理解する
ただ、問題は今私が行ったような内容は、言葉ではなくイメージで象徴的に語られる、ということ。私が毎日見る夢も、決してすぐに意味が分かるようなものではありません。「なんでこんな夢を見たのだろう?」と思わざるを得ない夢がほとんどです。あなたの場合もそうではありませんか?
せっかく自分の心の深みから送ってくれたメッセージなのに、何が語られているのかがわからない、というのは残念ですね。残念、というよりも「もったいない」し、場合によっては自分自身に気が付くチャンスを見失ってしまうともいえるかもしれません。
私は面接場面で、よく「印象的な夢を覚えていらっしゃいませんか?」とお聞きすることがあるのですが、それにはそういう意味があるのです。イメージで語られて突拍子もないストーリーの夢ですが、丁寧にお話をお聞きしながらその意味を見つけ、具体的で現実的な生き方のヒントにできれば、こんなに役に立つものはありません。
もし今、現実の「俗なる時間」の中でお困りの問題を抱えていらっしゃる場合、一度ご自分の夢を記録してみはいかがでしょうか?自分の夢とじっくりとつきあって、「ああでもない、こうでもない」と考えていくうちに、何かのきっかけで自分の生き方や問題解決のヒントが手に入るかもしれませんよ。