汝の哀しき性(さが)に泣け
新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
新年になるといつも繰り返す、このフレーズ。
もちろん今の自分の気持ちのありのままではあるのですが、では振り返って見ると「何回このフレーズをくりかえしただろう?」と思ってしまいます。
繰り返す“円環の時間”
「繰り返す」。この現象は実は私たちの世界において、とても日常的に見られます。毎日毎日太陽は夜になると沈み、朝になるとまた姿を見せる、この繰り返しです。またそれによって私たちは毎日毎日ほぼ同じルーティーンで生活を繰り返し、多少の変化はあろうとも日々をつつがなく送ることができています。
少し間隔を広げてみれば、春夏秋冬、季節は繰り返し、気がつかない間に古い世代は姿を消し、また新たな生命が芽吹き再び生と死のサイクルを再開します。上野動物園のパンダの赤ちゃんだけでなく、日々この世界に古い個体は死を迎え、新しい生命は誕生していくのです。
このような時間の流れは、「円環の時間」と言われ、古くは月の満ち欠けに象徴される「農業・植物的時間の流れ」でありました。確かに冬には枯れ果てたように葉が落ち、生気を失った木々が、春になると何処からか新しい芽が吹き、若葉が姿を見せる不思議は古代の人々ならずとも「繰り返すこと=世の中の基本的原理」であると思わずにはいられませんね。
永遠に発展する“科学的・論理的な時間”
一方で「直線的な時間」というのも理解できます。つまり西暦のように毎年毎年1年を積み重ねていく考え方です。これも考えてみれば私たちの日常の現象から生まれてきた考え方です。一歩一歩積み重ねていくことで人は何処までも進むことができる、論理的には時間に限界はないのかもしれません。人間の発展や可能性、歴史はとどまる事はないと考えたくなります。こういう考え方は科学的で、論理的な時間観なのでしょう。
私たちの“生の時間”とは?
私はカウンセラーとして多くの方々の「生の時間」を共にさせていただく機会があります。多くの方にとって私の部屋を訪れる時はまるで「時間が止まっている」ような印象を受けます。様々な過去の流れがあり、現在が今ここにあるのだけれど、この先いったいどういう風に自分の世界が展開していき、その中で自分の時間がどう流れていくのか、見当がつかなくて立ちすくんでいらっしゃいます。
ですが、そういうみなさんと「止まった時間」を共にしながら見通しを一緒に考え、自分の「生の時間」をどう流すことができるか、という可能性や選択肢を具体的に生み出す営みを続けていると、次第に止まっていた時間が流れ始める瞬間が現れてきます。その時に流れる時間は、先にあげた「円環の時間」と「直線の時間」が融合した時間であるような気がしています。
つまりグルグルと回りながらも、気が付いてみると直線的に前進している時間。それは例えてみれば「らせん階段」のようなイメージでしょうか。言葉にすれば「3歩進んで2歩下がる」ことを繰り返しながらも、結果的には1歩前に進んでいる、そういう「じれったい」けれど、「気が付けばここまで来ていたのか」、ということで気づかされる時間なのです。
今年もまた新しい1年が始まります
たった1日前の去年とどう違うのか?と聞かれても答えられませんが、それでも確実に私たちは生きています。
今日という一日は決して昨日とは同じではありません。
その違いは今日今すぐには分からないかもしれませんが、いずれ「あぁ、そうか、いつまでこれが続くのかと思われたあの日々があったからこそ、今日という日が迎えられたのだ」と思う日が来ることを信じて、日々を生きていこう、と新年を迎えた今、私は思っています。
みなさん、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。