汝の哀しき性(さが)に泣け
昔、ある不登校の女子中学生と卓球をしたことがありました。私は単純だった(今も)ので、彼女がうまく返してきた時は、「うまいね!」などと声をかけていたのですが、しかしその時、彼女はこういったのです。「あんまり、ほめないで。ほめられるとプレッシャーになるから」。あぁ、そうなのか、人間ほめられれば良いというものではないんだ、と気がつかされた瞬間だった。
さて、脚本家の宮藤官九郎さんが、かつてある雑誌のコラムで、「ほめる・叩かれる(叱責される)」という内容で、こう書いています。
“思春期を迎えると褒められる事が次へのプレッシャーになって来る。この前褒められたけど、次も同じように褒められるだろうか。次第に褒められるのが怖くなる。褒め言葉が重圧になって来る。”
なるほど、さすが、役者・脚本家として活躍されている宮藤さん、人間観察がするどいですね。
それにしても「ほめらるとプレッシャーになる」、という感覚はどこから来るのだろう?
その人が「ありのままの姿でいいんだ、ありのままの自分を受け入れてもらえた」、という体験が不足していることと関連があるのではないでしょうか。
親の望むような結果を出した時だけほめられる、という体験を積み重ねてくると、「ほめられない自分はだめだ」、と思うようになっていく。そうなるとむしろ「叩かれた(叱責された)方が気が楽」になっても不思議ではないかもしれません。
◆思春期とは、『もののあわれ』を知る時期◆
そこまで行かなくても、この「ほめられるとかえってプレッシャ」というのは思春期にはありがちの心性だ、とも言えるかもしれませんん。思春期に入ると言うことは、「自分のありのまま」と向き合わざるを得なくなり、「ありのままを自分」を受け入れざるを得なくなる、と言うことでもあるからです。
万能感に満ちたこども時代を過ぎて、気がつけば自分はたいしてハンサムでも美人でもない、普通の才能の、平凡な、いやむしろ、情けない人間だったんだ、と言うことを少しずつ、あきらめとともに受け入れていく。つらいことですが、避けられないプロセスですよね。
これを故・河合隼雄さんは“10歳にして、『もののあわれ』を知る”とおっしゃられました。確かに人生と言うものは、ある意味“あきらめ”が肝心です。自分は自分が思っていたほどの人間じゃない、と気づくことが必ずあります。もっとも、そのあきらめを受け入れられるために、「ありのままの自分を受け入れてもらった」経験からくる安心感が育っていることが必要なのでしょう。
その安心感が育っていない時、「ほめられた」体験が「次もほめられないと自分はだめな人間だ」というプレッシャーになってしまうのではないでしょうか。だって、常に100点を取り続けるというのは大変なことだもの。
どうせ自分はこんなもの、と「ありのままの自分」を受け入れて、「ほめられた」うれしさは素直に受け入れるとしても、ま、それも一時(いっとき)のこと、「ほめられなかった」としても、それがどうした、たいしたことじゃないさ、と思えれば楽なのですが・・・・・。
そう思えるようになった時、それが成長の証でしょうね、きっと。
最後に官九郎さんは
“長い長い思春期が終わりました。宮藤官九郎、もう叩かれても伸びません。褒めて下さい!”
とおっしゃられています。思春期が終わり、ダメな自分につくづく嫌気がさしたら、やっぱり今度は嘘でもいいからほめてほしいもの。
同感!私もほめられれば、木にでも何にでも登りますよ!ほめて!ほめて!
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