なぜ人は自分の好きな人の事をもっと知りたいと思うのか?
私たちは小学校で習うような簡単な漢字くらい読めると思っています。
そうでなくても
日常使っている漢字は読めるのですが
その漢字って本当に漢字を読んでいるのでしょうか?
実は読めると思っている漢字
通常は難なく読める漢字であっても
まともに読もうとすると読めない漢字があるわけですね。
その最たるもので例に上げますと
「地名」でしょうか。
例えば京都にある「烏丸」という漢字ですが
皆さんは何と読むかご存知でしょうか?
知ってる人からすれば当然のごとく自然に読めますが
これは「からすま」と読みます。
カラスとマルでカラスマです。
しかしまともに読もうとすると
これをどうして「からすま」と読めるでしょうか?
カラスとマルですよ?
読み方ではなく
単に知ってる漢字としてまともに読もうとすると
「からすまる」とか、間違えて「とりまる」と読んでしまうのではないでしょうか?
でも知ってる人からすればそんな間違いは犯しません。
まず間違えることなく
むしろその読み方でしか読まないでしょう。(例では「からすま」)
もっと有名どころの漢字を挙げてみますと
「嵐山」という漢字。
これは「あらしやま」と読みますが
知ってる漢字として読もうとすると
「あらしやま」なのか「らんざん」なのか(他にも違う読み方もできますが)
何と読めばいいのかわかりません。
私たちは固有名詞として知ってるから読めるだけで
単に知ってる漢字というだけでは
漢字は知っていても何と読むのかまではわからないのです。
このような例は他にもたくさんあり
その最たる例でわかりやすいものが各地の地名ではないでしょうか。
地名なんて読み方を知らない者が
知ってる漢字の読み方だけで読もうとすると
まともに読めるものではありません。
先程の「烏丸」なんて
どうして「丸」が「マ」と読めるでしょうか?
「丸」という漢字は「マル」、もしくは「ガン」であって
「マ」という読み方ではありません。
(そんな習い方はしていない)
なのに「烏丸」と書けば「丸」は「マ」という読み方になるのです。
私たちは漢字を知っているからといって
必ずしもその漢字の読み方で読めるわけではないんですね。
この漢字はこう読むのだと知っているからそう読めるだけ。
漢字そのものは知っていても
読み方を知らなければその漢字を読めないのです。
(知ってるからといって読めるわけではない)
話は飛躍するかもしれませんがこのことを違う考え方をしてみますと
私たちは知識として知っていても(知識に長けていても)
その使い方を知らなければ(漢字でしたら読めなければ)
単に有しているだけでは使い物にはならないということです。
私たちの身の上で起こっている話でもっとわかりやすい例を言いますと
誰かに注意されて(行動を促されて)
そんな事は言われなくてもわかってると反発心が生まれ
なかなかそうしない、言われたとおりにしないということがあると思います。
言った方もわかってるんだったら言われる前にやれと
お互い険悪なムードになることもあるでしょう。
しかし漢字の読み方のように
知っていてもそう読めないのと同様
私たちはわかっていてもそうしないということが言えるのです。
(したほうが良いとわかっていてもそうしない)
このように知っているからといってできるかどうか
そうするかどうかは別の話で
私たちがよく思う「そんなことはわかってる」というのは
単にやりたくない言い訳に過ぎないのであって
つまるところ何もわかってないと言えるのかもしれませんね。