自分では気づかない、過保護という名の虐待 -どこまでが過保護なの?-
道徳の教科化の動きがあるようですが
道徳こそ人の理解を妨げ、人を何もわからない盲目の状態にし
悩みという名の苦を生み出す根源になるものだと私なんかは思っています。
だからといって道徳が何も悪いと言ってるのではありません。
人が社会の中で生きていく上で大事な概念だとは思うのですが
道徳の押し付けや型に当てはめる洗脳教育
そして皆同じ基準、同じ価値観でそれを(それだけを)正しいとする思想には
むしろ危険を感じてなりません。
最初にも言いましたように
何も道徳で言ってる事が悪いのだと言ってるのではありません。
道徳で言ってる心がけや心構えの部分は
やはり心得ておくべき、身に付けておきたい態度だとも言えます。
しかし私が言ってるのはその内容ではなく
あくまで道徳が持つ性質上の危険性を言ってるのです。
それを唯一正しいとする思想の危険については
全て均一化という偏見が潜んでいる事に
誰も気づけなくしてしまう恐れがありますし
ある種のマインドコントロール状態にもなりかねません。
別に道徳自体が悪いとは思いませんが
ただ教育として、教科として教える道徳の概念が
全て正しいとするその思想に危険を感じるわけです。
そして私が感じる最大の懸念に
自分で考える(考えられる)能力を低下させ、奪ってしまうのではないかと
自分で考えられずに今より更に悩みを抱えてしまう人が増加してしまうのではないかと
その事に危機感と不安を感じてならないんですね。
むしろ考える力を養う教育こそ
道徳なんかよりも先ず必要な教育であると私は思います。
そんな深刻に捉える必要はないかもしれませんが
道徳が危険な宗教や間違った思想主義
考える力を奪ってしまう洗脳教育のようなものにならないように
これから長い目で、注意深く取り組んでいく必要があるのではないでしょうか。
京都カウンセリングラウンジ
宮本 章太郎
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