「時間は平等」のウソ
昨日、駅のロータリーで車の助手席から降りた男性が駅の方に歩いています。それを車の横で立って見送る女性を見て、きっと出勤するご主人を奥さんが駅まで送って来たのだろうと想像していました。
奥さんはご主人が見えなくなるまで見送っていました。しばらくして奥さんはご主人に手をふった後、車で帰っていきました。
この光景を見て何だかやさしい気持ちになれたと同時に、お袋のことを思い出しました。お袋がまだ認知症になっていない頃のことです。
その頃、1ヶ月に2回、実家に帰っていました。倉敷アイビースクエアでステンドグラス教室をしていたからです。その頃は実家に帰るのが楽しみでした。
たいてい3日間くらい実家で過ごして京都に帰っていました。お袋は、駅まで歩いていく私の後ろ姿が見えなくなるまで見送ってくれていました。
200mほどいった曲がり角で、もう居ないだろうと思って振り返ってみると、まだお袋は立っていました。
後ろ髪を引かれる思いが半分、照れくさいのが半分、その度に、こんな時がいつまでも続くといいなぁと思っていました。
今は実家には誰も住んでいません。私が帰郷した時の木賃宿みたいなものです。今でも実家を出て駅まで歩く時、その曲がり角まで歩くと振り返って見ます。そこにお袋が居ないのが分かっているのに。
幸せな時って、普段は意外に感じられないし観えないもの。自分でいくらココロから感じようとしても中々難しいものです。
そんな幸せって、他人と自分を重ね合わせて客観視できた時、初めて実感できる。そんな気がします。
今回の記事によるご質問がありましたら気軽にメッセージ、或いは「オンライン寺子屋コミュ」で相談して下さい。
あなたにも気付きがありますように
【小さな実践】
幸せな時間は何気ない時にあるもの