副業から独立へ ~本気の人への伝言マガジン~ 事業アイデアをどう出すか?
1.副業の提案
2023年1月現在、僕は、55歳。
現在の立場は、自分が投資する会社をグループにした、URVグローバルグループの最高経営責任者です。49歳で、勤めていた企業の取締役を辞任して、独立しました。国内海外に展開するURVグローバルグループは、日本円換算で、23年3月に締める年商は、総合計25億円に達する見込みです。
この年商を、独立後、6年で作ったわけではありません。僕の事業は、大学生のころから芽生えており、25歳の時点から、長年にわたり、副業で事業を創ってきました。つまり、独立する49歳まで、24年間、副業で事業を伸ばし、独立時点で、僕の事業は副業ながら、年商5億円まで至っていたのです。
つまり、副業で24年かけて、ゼロから年商5億円まで成長させ、独立後6年で、年商5億円から25億円まで成長させた、というのが、僕の事業の軌跡です。
自分が100%株式を保有する企業群の事業家である僕には、定年退職がありません。身体と、心と、頭脳が続く限り、僕は事業家であり続けるつもりですので、僕の事業計画は、2050年までに及んでいます。
今の事業の投資は、2023年から2050年までの27年間の未来を想定して、行っています。このような今の状態の基盤を、僕は、副業で創ってきました。
そんな僕は、是非、これを読んでいただいている皆さんに、声を大きくして申し上げたいのです。
・副業は、小遣い稼ぎのためにやるのではありません
・自分の事業家としての経験を積み、未来の事業の礎石を、サラリーマンとして給与をもらいながら、創りましょう
・副業は、自分が勤める会社が認めるかどうかにかかわらず、自分の意志と責任で開始するものです
・副業で事業に投資し、事業を創り上げることは、貯蓄などよりも、ずっと役立ちます
小遣い稼ぎや、ケチな貯金などの発想を捨て、自分を成長させ、自分の経験を積み、将来の大きな売り上げを生み出す装置である企業を、副業のノーリスクの状態から、創り上げましょう!
これが、僕の、あなたへの提案です。
以下、その軌跡を、このコンテンツで開示して参ります。
2.僕の副業の源流 21歳 ~株式投資からスタート~
大学生時代。
僕は家庭の経済的事情から、働きながら、大学を卒業しました。大学と両立する効率的な仕事をすべく、僕は、その頃、急成長を遂げていた、大手量販店企業の創業の経営者の方の、「かばん持ち」をしながら、学業を続けていました。
その経営者の方から、僕は、「かばん持ち」を超える様々な仕事の機会をいただきました。
新規事業の創業・新店舗の開店・バイヤー業務から、訴訟案件・企業買収や、株式の仕手投資まで。
中央大学法学部に、弁護士を目指して入学した僕は、その仕事を懸命に進めるうちに、次第に、弁護士への希望が色褪せ、経営というものに惹かれていきました。
会社法という経営の枠組みよりも、現実に血が流れる経営そのものに、自分の血が沸き上がることに気づいたのです。
この仕事の中で覚えた知識と経験で、僕は、大学2年生の時から、株式投資を「副業」で始めました。この時の方法は、今、僕が自分の資産を、リスクヘッジをしながら、安定期に成長させるポートフォーリオを構成する資産運用法ではありませんでした。
若さからくる血が沸き立つ、ハイリスクハイリターンの投資を行っていました。そして、大学3年生の時、ベルリンの壁が崩壊した瞬間に、僕は、それまで10年間、大きな相場がなかった、総合商社に注目し、そのワラント債(新株引受権付社債)に、自分の余裕資金のすべてを投入して、相場を張りました。
ソ連崩壊を予測した市場は、総合商社株を大きく引き揚げ、僕のワラント債は、株価を大きく超える上昇幅で続伸しました。
この投資は、「一発屋」的投資として、大きくあたり、僕は、大学3年生の3日間で、当時のお金で3000万円を超える源泉税引き後の純利益を稼ぎあげました。
投機的な株式投資の危険性を知っていた僕は、その後、株式投資からきっぱり足を洗いましたので、この利益は、僕の手元に残ることになりました。これが、僕の、最初の事業の元手になった「タネ銭」の資金でした。
3.大学の新卒で、メガバンクになっている銀行に就職 23歳
僕は、弁護士になるための司法試験の受験を大学3年生の一回(この時は、短答試験に合格をしており、論文試験で落ちました)を最後に撤退し、現在は、3大メガバンクの一つを構成する大手銀行への内定をとり、大学卒業と同時に就職しました。
大学時代、先に書いたような、大手量販店企業での仕事経験があった僕は、おそらく、銀行の人事からみて、周囲の銀行に入行する真面目な新卒各位とは、相当に異質な若者であったのでしょう。
研修期間終了と同時に、僕は、シンクタンクの総合研究所への配転を言い渡されました。当時の銀行系総合研究所は、銀行の中でも、最も役員昇進に近いエリート機関で、新卒で配転されることは、皆無の組織でした。
そんな組織に配転され、早朝から深夜まで続く激務をこなす、経営コンサルティング業務への道を、僕は本業で歩み出しました。
4.実姉の離婚と姉の将来のため、という副業スタートの発想 24歳
銀行系のシンクタンクに入り、ほとんどが30代以上の、旧帝国国立大学出身者の方々の間に入った僕は、早朝から深夜に至る仕事をこなしながら、経営や会計・金融・英語の勉強を、睡眠時間を惜しんで励む日々を送っていました。
入行してから約1年間は、僕は、脇目もふらずに、仕事と勉強に打ち込んでいました。
僕には、7歳年上の実姉が一人いました。彼女は、当時、はじめての結婚に失敗し、離婚をして、銀座の夜の街で、ホステスをしていました。一流クラブのホステスとして、かなりの稼ぎをあげていた彼女ですが、既に年齢は30歳を超えており、そのまま、「お水の花道」をあゆんでいくのか、どうかの岐路に立っていました。
そんな姉に相談を持ち掛けられた僕は、姉の将来のため、姉が得意だった料理の腕に磨きをかけて、小料理屋を僕と共同で開業することを勧めました。
そして、姉と共同で出資を行い、残りの資金を自分の銀行から借りいれる形で、銀座に、小料理屋を開業したのです。
5.銀座に小料理屋をオープン 25歳 ~僕の飲食業 第一号店~
この小料理屋「銀座花月」が、僕の副業事業の、第一歩となりました。
姉を信頼できる小料理屋で半年料理修行をさせ、スケルトンの店舗を借りて、そこに、姉の雰囲気にあう店を設計し、施工しました。姉が、可愛がっていた銀座の有名店のクラブのホステスを、ホールの責任者に配置し、その方の紹介で、神楽坂の芸者をしていた若い女の子を、雇用して、3名の体制で、店を稼働させてゆきました。
既に、銀座界隈で夜を過ごす男性諸氏や、クラブのママさんたちの人脈を持っていた姉たちのお陰で、店は、開店から繁盛を続け、銀座以外では考えられない客単価をはじき出し、銀行からの借入金は、1年で完済することができました。
僕は、銀行からの収入がありましたし、銀行の就業規則との関係もありまして、その店を経営する会社からの役員報酬を一円もとっていませんでした。そのためもあって、会社には、利益剰余金が蓄積してゆきました。
副業が、会社との関係で、微妙なヒトは、要は、会社を設立し、そこから役員報酬をとらなければ、職場に副業がばれることはありません。職場は、住民税の特別徴収のための通知が自治体から届くため、前年の確定申告後の収入がわかってしまいます。そのことで、禁止されている副業が職場にわかってしまうのです。
僕は、副業時代、自分の会社を「貯金箱」と位置づけ、一切、役員報酬をうけとらずに、会社に利益を積みました。そのため、職場に対して、一切、副業が知れることはありませんでした。
今でも、職場は、副業に対して積極的なところは、極めて少数です。副業を進めるヒトには、「仕事に集中できない」などの偏見から、昇進の道が閉ざされたり、昇給がされないなどの差別が暗に行われることが多々あります。
従って、僕は、独立を成し遂げるまで、一切、副業を、会社や会社関係者に打ち明けたりしませんでした。会社と、まったく別の世界をつくりあげ、それぞれ機動させていったのです。
勿論、そのために、仕事量は、他の会社員の数倍に至りました。僕の場合、将来に備えた勉強も継続していましたから、本当に、寸秒を惜しんでの生活が続いたわけです。
しかし、他人より、経済的に成功をしようと考えるヒトは、当然、その犠牲を負うのは仕方ありません。
6.姉の再婚により、単独経営へ 28歳
一方、銀行での僕の生活にも、大きな転機が訪れました。
入行から3年目。
経営コンサルティングや不動産コンサルティングで様々な銀行内の成績を積み、3期連続で、全店優秀成績社員表彰を受けた僕は、グループで年間3名という狭き枠である、社内留学制度対象者に抜擢されました。銀行が大学院留学の費用をすべて貸してくれ、給料を受けとりながら、英米の大学院に留学することができる切符です。
アメリカの大学院は、職場からの推薦や上司推薦状が入学に必須要件になっており、学力と職業実績が必須です。しかも、アメリカの名門私立大学院にはとてつもない費用がかかり、かつ、アルバイトなどをしながらでは到底時間がないため、生活費が高額なアメリカで、勉強に集中する生活を数年間、働かずに続ける経済力が、必須となります。
そのすべてが揃っている人材だけが入れる狭き門が、アメリカの名門大学院です。僕は、その最高ランクに位置し、世界最高峰の、ハーバードビジネススク-ルを目指しました。
そして、副業の飲食業にも、大きな転機がやってきます。
店を共同経営していた姉が、店に通ってきていた男性と結婚し、店の経営を辞めたいとと言い出しました。
姉の幸せを考えれば、よい方との結婚は進めたほうがよいのですが、せっかく、軌道に乗って来た店を手放すことはしたくありませんでした。店には、姉の下で、ホールを仕切ってくれていたメンバーがいましたので、そのメンバーの生活も、僕は経営者として支える責任があります。
僕は、そのメンバーたちとじっくり話しあい、結果、割烹の銀座花月を、リーダー格の従業員にまかせて営業を続けることを決めました。そして、別の従業員を、イタリアに調理修行に出し、別ブランドで、イタリアンのリストランテを開店することに決めました。
共同経営者が外れることを、逆にチャンスと捉え、単独経営に踏み切るとともに、それまで育成をしてきた従業員を登用して、事業の拡大に入ったのです。
7.2号店の開業と、店舗拡大戦略 30歳
僕は、銀行からアメリカのボストンに留学し、2年間、ハーバードで勉強を続けました。英語のノンネイティブの僕にとって、この2年間は、人生で最も勉強をした時期であり、世界から集まってくる、「知のオリンピック代表選手」のような人たちと、競い合いながら、人脈を創る、絶好のチャンスに恵まれました。
ハーバードビジネススクール(ハーバード大学経営大学院)は、名実ともに、世界の最高学府であり、そこには、世界の政治・経済のトップランナーになる人材が集まっていました。ここでの生活は、僕に、その後、ニューヨークのウオール街で仕事の実績を積むベースを創ってくれたとともに、世界中に広がるビジネス人脈も、育むことができましした。
この期間中、イタリアで料理修行を積んだ従業員が日本に帰国し、僕は、日米を往復しながら、表参道に、イタリアンのリストランテを開業します。
この2店舗めの店の、開業と成功によって、僕の飲食副業ビジネスは、年商1億円を突破しました。
8.都内8店舗まで、19年かけて、一歩一歩、拡大を続ける
大学院でMBAを取得した後、僕は、自分の日本の銀行に戻らず、すべての費用を返済して、アメリカのニューヨークのコンサルティングファームと契約する道を選びます。
日本の銀行は、当時、日本の中でも、とても高い年収を僕に与えてくれていましたが、ハーバードのMBAを取得した僕に、アメリカの名門コンサルティングファームが提示してくれた年俸条件は、極めてハードな仕事と引き換えに、日本の銀行の10倍を稼げる内容でした。
そして、仕事の内容も、銀行に戻るよりも、圧倒的に魅力的でした。
バブルが崩壊し、当時の日本の銀行は、不良債権に喘いでいました。日本に帰ったとしても、将来が約束されているような時代は、既に終わっていたと僕は、冷静に観察していました。
勿論、アメリカのコンサルティングファームは、実力だけがモノをいう弱肉強食の職場であることは、覚悟していました。
野球の選手のような仕事で、高い年俸は、実力と実績に比例して支払われますから、実績が伴わなければ、たちまち、リストラの憂き目にあいます。
それを覚悟しても、僕は、世界経済の中心に立つニューヨークで、世界の企業をクライアントとして、金融と経営という知を武器にして、闘い、勝ち抜く道を選びます。
しかし、その仕事は、40歳を超えてやり続けるようなものではありませんでした。
僕は、短期間で、大きく稼ぎ、その期間に、アメリカか日本で、独立する事業家を目指すライフプランを描き、その準備ステップを短期間で仕上げるため、ニューヨークのウオール街を目指す計画をたてました。
そして、日本で構築した飲食の副業もまた、独立ための事業の礎とすべく、確実に発展をさせることにしました。
本業が激務だからと言って、未来を見据えた事業の投資を怠るのは、眼前の戦術に脚をとられて、戦略的な行動を放棄することと同じです。
軍事で例えましょう。
眼前の戦闘で勝利を収めることに終始する国家は、存続できません。眼前の戦闘の銃弾戦の最中にあっても、この後、自国が、いつ・他のどこの国と、どのような戦争を遂行するのかに思慮を巡らせ、自国の資源を冷静に配分し続ける人物こそ、国家のマネジメントを行うことができる器を持った指導者といえるのです。
自分の人生においても、「今、忙しい」などという理由で、自分の将来の戦略を見失うような人物では、到底、成功は望めません。
その意味で、当時の僕にとって、ニューヨークでの本業は、将来の独立事業の備えた資金と経験を積む戦術のステージであり、一方、生まれ故郷の日本に遠隔操縦する副業は、将来の独立に備えた戦略のステージとして位置付けていました。
エリアを分散しての、複数のステージを持つことは、リスクの分散に繋がります。
こうして、僕は、日本の自分が経営する店舗に信頼できる城塞守備司令官を配置し、そこを守りながら、その城塞を、折あれば拡大して国を広げる機会を探り続けました。
飲食事業では、自分にノウハウのないヒトは、フランチャイジーとなり、本部にノウハウを頼る方法があります。よいフランチャイザー本部を探せば、フランチャーズシステム(以下、FCと記載します。)は、一つの事業を学ぶよい方法だと思っています。
僕も、現在、海外飲食展開で、某有名FCのフランチャイジーでもあります。
ただ、副業時代の僕は、FCシステムをとりませんでした。僕は、勿論、厨房やホールで自分が働くことをせず、投資家・経営者に徹して、飲食業を展開する信条があります。そうすると、飲食業の根幹は、店長となる厨房を仕切る人材にかかってきます。
FCは有効な方法ではありますが、僕は、寧ろ、飲食業の成功のカギは、このキーになるヒトとのめぐり逢いだと思っています。FCは、ノウハウや仕組みを提供してくれますが、ヒトは提供してくれません。
そして、キーになる人材というのは、「自分の料理を店で出したい」と強く思っている人材なのです。つまり、自分の料理の腕を信じ、自分の店を大切にし、自分のお客様を大切にする人材である必要があります。
このような人材が、FCが提供する素材や料理法に、唯々諾々と従うはずはありません。
FCで成功するというのは、経営者としてはアリだと思いますが、料理人としてはナシだと僕は思っています。
従って、僕は、飲食の世界で、キーになる人材探しをし続け、そのヒトがみつかったら、そのヒトと自分の想いを徹底的に共有し、自分が資金を出して、そのヒトに店を持たせ、その経営を自分が支援する、という、方法に徹しました。
素材のサーチは、経営者である僕がサーチ面や資金面で責任を持ち、店長は、店と従業員と料理と仕入れの管理に集中させました。
この方法は、店舗の拡大のスピードは高くありませんが、確実に成功を積み上げるには、最適の方法だと思っています。
この方法を、アメリカから遠隔操縦した時期も含め、ぶらさずに続けて、僕は、都内に8店舗まで、19年かけて、一歩一歩、飲食店を拡大し続けました。 これで、創業23年目の年商は、8店舗合計で、5億円を突破したのです。
9.2017年に独立 49歳 ~年商5億円外食事業を、M&Aで売却し、資金に変える~
2007年。アメリカのウオール街には、その数年前から暗雲がたちこめていました。
ITバブルと、サブプライムローンを中心とする不動産バブルに対し、ニューヨークのウオール街の、賢明な金融マンたちは、近いうちに、それが崩壊を起こすと予想していました。
僕も、金融系経営コンサルタントとして、冷静にアメリカ経済を観ておりましたので、「行けるところまで行こう」という感覚で、自分の実績をバブル経済の中で積んでいましたが、2007年(リーマンショックの前年)に、40歳を迎えたことを契機に、ニューヨークでもキャリアを打ち切り、日本に帰国することに決断しました。
そして、帰国後、僕は、お誘いをいただいた、大企業の取締役を、合計3社、2017年までの10年間、本業として渡り歩きます。
この期間、僕の本業では、ニュ-ヨークの外資系出身者として、日本の大企業の取締役の立場で、経営コンサルティング部門の立ち上げ・海外進出事業の立ち上げ・コンプライアンス部門での内部監査・M&A業務など、攻撃的な仕事を、約10年間、続けました。
僕は、2015年にURVグローバルグループのホールディングス会社である、株式会社URVプランニングサポーターズを設立して、独立の準備を開始しはじめました。
既に、副業での飲食事業は、年商5億円に近付いており、自分の役員報酬をとれば、収入にはまったく不安はありませんでしたが、当時、僕の本業は、大手企業の取締役でしたので、責任という意味で、簡単に辞められるものではありませんでした。僕を、取締役に引っ張っていただいた、オーナー社長にも、御恩がありましたので、本業の仕事は、しっかり区切りをつけるまで、継続するべきだと、考えました。
2017年2月、僕は、49歳という年齢に至り、「独立は、今だ!」というタイミングをとらえて、本業の取締役を2017年2月28日退任させていただき、翌日の2017年3月1日に、株式会社URVプランニングサポーターズの代表取締役に就任しました。
そして、副業で創って来た8店舗の飲食店を経営する会社を、M&Aで、大手企業に売り抜け、僕は、その長年の成果として、譲渡所得税引前利益13億円を獲得しました。
この資金を投資資金として、僕は、2023年現在、10事業の領域を世界で展開する、URVグローバルグループの成長を本業として、事業家の人生を、歩み出したのです。
松本尚典の中小企業経営者支援コンサルティングサービス
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