「誠意を見せろ」と言われ続けている|要求内容が特定されない不当要求
お店に来る特定のお客さんが、いつも決まったスタッフにだけ強い口調で絡む。アルバイトの子が「あの人が来る日は入りたくない」と言い出した——。小さなお店を営んでいると、こうした場面は珍しくありません。
このとき頭を占めるのは、たいてい「あのお客さんにどう対応するか」です。ただ、法律の目から見ると、この場面にはもう一つ別の問題が同時に走っています。雇っている側が、働いている人に対して負っている義務の問題です。
ここを見落としたまま時間が経つと、相手のお客さんとの話が片づいた後に、今度は従業員との間で問題が残ることがあります。本コラムでは、その「もう一つの問題」である安全配慮義務について、従業員が数名以下の個人事業主・小規模なお店を念頭に整理します。
1.事業主が負う義務は二つある
カスハラをめぐって事業主が負う義務は、性質の異なる二つに分かれます。混同されやすいので、先に整理しておきます。
| 雇用管理上の措置義務 | 安全配慮義務 | |
|---|---|---|
| 根拠 | 改正労働施策総合推進法(2026年10月1日施行)と厚生労働省の指針 | 労働契約法5条と判例 |
| 相手 | 国(行政) | 従業員本人 |
| 内容 | 方針の明確化、相談体制、事後対応など、あらかじめ体制を整えること | 個々の場面で、その人の安全を守るために必要な配慮をすること |
| 果たさないと | 行政の指導・勧告、勧告に従わない場合の事業主名の公表 | 従業員本人から損害賠償を請求されうる |
| 施行時期 | 2026年10月1日から | 以前から存在する |
義務化のほうは施行日が話題になりますが、安全配慮義務は新しい義務ではありません。2026年10月を待たずに、いま現に存在しています。そして、金銭的な負担という意味では、こちらのほうが重くなりやすい義務です。
義務化そのものの中身(誰が対象か、何を整えれば足りるか)は別のコラムで扱っていますので、本稿では安全配慮義務のほうに絞ります。
2.安全配慮義務とは何か
労働契約法5条は、使用者は労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする、と定めています。
この考え方が最高裁で示されたのは1975年(昭和50年2月25日判決)で、民間の雇用契約についてこれを明確にしたのが**川義事件(最高裁昭和59年4月10日判決)**です。宿直勤務中の従業員が、社内に侵入した元従業員に殺害された事案でした。
この判決には、小さなお店にとって示唆的な点が三つあります。
第一に、外部の人間による加害も対象になるということです。安全配慮義務は機械や設備の事故だけの話ではありません。第三者から危害が加えられるおそれのある状況で、それを防ぐ配慮をしたかが問われます。
第二に、義務の中身は一律ではないという点です。判決は、義務の具体的内容は労働者の職種、労務内容、労務提供場所などによって異なる、と述べています。飲食店と美容室と個人塾では、求められる配慮の形も変わります。
第三に、一つの手段が難しければ別の手段で補うことが求められるという点です。判決は、物的な設備を十分に整えることが困難であるときは、宿直員を増員するか安全教育を十分に行うなどして、設備と相まって危険が及ばないよう配慮すべきだった、という立て方をしました。「うちは小さいから設備投資は無理だ」ということが、そのまま免責の理由にはならない一方で、人の配置や事前の取り決めで代えていく道は開かれている、という読み方ができます。
なお、安全配慮義務は結果を保証する義務ではありません。何か起きれば必ず責任を負うというものではなく、その事態を予測できたか、予測できたとして避ける手立てがあったかが問われます。裁判例には、相談体制を整え、緊急時の設備を用意し、問題のある顧客に対して事業者側から申入れをしていたことなどを踏まえて、義務違反を否定したものもあります。
3.どこまでの人を「守る側」に入れるか
「従業員」の範囲は、雇用形態で線が引かれるわけではありません。
| 立場 | 考え方 |
|---|---|
| パート・アルバイト・短時間勤務 | 労働契約がある以上、正社員と同じく対象。勤務日数の少なさは義務の有無を左右しない |
| 派遣スタッフ | 措置義務については派遣先も負う。実際に指揮命令している以上、安全面の配慮も現場側の問題になる |
| 業務委託・フリーランス | 労働契約法5条が直ちに適用されるわけではないが、働き方の実態から労働者と評価される余地がある。フリーランス法では発注側にハラスメントの相談体制整備が求められている |
| 同居の親族のみを使用する場合 | 労働基準法の適用が及ばない範囲があり、扱いが一般の雇用と異なる。個別の確認が必要 |
| 事業主本人 | 労働者ではないため、この義務の対象外。ただし国の指針は、雇用する労働者以外の者についても同様の方針を併せて示すことが望ましいとしている |
迷いやすいのは業務委託のスタッフです。契約書の表題が「業務委託契約書」であっても、勤務時間や業務内容が細かく指定されていれば、実態として労働者と判断される可能性があります。契約の形式ではなく実態で決まるという点は、押さえておいたほうがよい部分です。
4.「何もしなかった」がどこで効いてくるか
ここが本稿でいちばんお伝えしたい点です。
従業員が体調を崩して精神疾患を発症した場合、労災にあたるかどうかは、厚生労働省の「心理的負荷による精神障害の認定基準」で判断されます。この基準は2023年9月1日に改正され、評価表の具体的出来事に**「顧客や取引先、施設利用者等から著しい迷惑行為を受けた」**という項目が加わりました。ここでいう著しい迷惑行為とは、暴行、脅迫、ひどい暴言、著しく不当な要求などを指すとされています。
注目していただきたいのは、心理的負荷が「強」と評価される例の並びです。治療を要する程度の暴行を受けた場合や、人格を否定するような言動を執拗に受けた場合が挙げられているのに加えて、最後にこう置かれています。
心理的負荷としては「中」程度の迷惑行為を受けた場合であって、会社に相談しても又は会社が迷惑行為を把握していても適切な対応がなく、改善がなされなかった
つまり、出来事そのものは中程度でも、事業主側の対応の有無によって評価が「強」に上がりうるということです。同じ出来事が起きた二つのお店で、評価が分かれることになります。
同じ基準の「総合評価の留意事項」にも、職場の支援・協力が欠如した状況であること(問題への対処、業務の見直し、応援体制の確立、責任の分散その他の支援・協力がなされていない等)は、総合評価を強める要素となる、と明記されています。
労災の認定は、事業主が賠償責任を負うかどうかの判断とは別のものです。ただ、そこで検討される事実——相談があったか、把握していたか、対応したか、改善したか——は、安全配慮義務を尽くしたかを見るときにも重なってきます。「知らなかった」で通せる場面が狭く、「知っていて動かなかった」がはっきり記録される構造になっている、と考えておくのが安全です。
5.小さなお店で「配慮した」といえる形にする
体制づくりの全体像は義務化のコラムに譲り、ここでは安全配慮義務の観点から、優先度の高い五つに絞ります。
(1)一人にしない。難しければ代わりの手当てを決めておく
人手の都合で一人にせざるを得ない時間帯があるなら、そのときにどうするかを先に決めておきます。事業主の携帯にすぐつながる形にしておく、応援を呼ぶ合図を決めておく、この状況になったら店を閉めてよいという基準を伝えておく——川義事件の考え方を、身の丈に合わせて置き換えたものです。
(2)その場で判断させない
トラブルの多くは、現場が回答を迫られる形で拡大します。「その場でお答えできません、確認してご連絡します」と言ってよい、と事前に許可しておくだけで、従業員の負担はかなり変わります。判断は事業主が引き取るもの、という前提を共有しておいてください。
(3)場を収めるために謝らせない
その場を静めたい一心で、非のないスタッフに頭を下げさせることがあります。これは、相手の要求を広げやすいうえに、従業員との関係でも問題になります。公立小学校の事案ですが、管理職が正当な理由なく教諭に謝罪を強いたことが違法とされた裁判例があります(甲府地方裁判所平成30年11月13日判決)。謝罪するとしても、何について謝るのかを分けて伝えることが大切です。
(4)相談の受け皿を決めておく
一人で切り盛りしていれば、相談先は事業主自身になります。それで構いません。大切なのは、受けたときに軽く扱わないことです。事実を確かめないまま「その程度は普通だよ」と返してしまうと、それ自体が後から問われる材料になります。
(5)起きた後の手当てをする
シフトや担当を変える、当面その顧客の対応から外す、必要に応じて医療機関の受診を勧める。記録の残し方は別のコラムで詳しく扱っていますが、対応した事実が残っていることが、後になって効いてきます。
6.従業員に対して避けたい対応
- 「お客様のことだから」で話を終える
- 相談してきたことを理由に、シフトを減らすなど不利益に扱う(指針でも禁止されています)
- 事実を確認しないまま「カスハラではない」と決めつける
- 従業員の氏名・連絡先・自宅の情報を、求められるまま顧客に伝える
- トラブルによる損害を、従業員個人に負わせる
最後の点について補足します。最高裁昭和51年7月8日判決(茨城石炭商事事件)は、使用者が労働者に損害の賠償や求償を求められる範囲を、事業の性格や規模、加害行為の予防や損失の分散についての使用者の配慮の程度などを考慮したうえで、損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められる限度に限る、としました。「予防についてどれだけ配慮していたか」が考慮要素に入っている点は、示唆的です。
7.顧客への対応と、従業員の保護は別の話
出入り禁止を告げる、警察に相談する、法的措置をとる——これらは相手方に向けた対応であり、それぞれ別のコラムで扱っています。
ここで押さえておきたいのは、顧客側への対応をしたこと自体が、従業員を守る配慮として評価されうるという点です。実際、事業者から顧客に対して申入れをしていたことなどを理由に、義務違反が否定された裁判例もあります。相手への対応と従業員の保護は、別々のようでいてつながっています。
8.まとめ
- カスハラをめぐる事業主の義務には、行政に対する措置義務と、従業員に対する安全配慮義務の二つがある
- 安全配慮義務は2026年10月を待たずに現に存在し、実務上の負担はこちらのほうが重くなりやすい
- 対象はアルバイトを含む従業員全員。契約の形式ではなく実態で判断される
- 労災の認定基準では、事業主が対応したかどうかが心理的負荷の評価そのものを左右する
- 完璧な設備や体制がなくても、一人にしない工夫、判断を引き取る姿勢、相談を受け止める姿勢は今日から形にできる
従業員を守ることと、お客様を大切にすることは、対立するものではありません。線を引くべき場面で線を引けることが、結果として、正当なご意見に落ち着いて向き合える環境をつくります。判断に迷う場面がありましたら、早い段階でご相談ください。


