見ないと後悔する目からウロコの家造り
建築は技術と文化の融合体である
建築と云うものに大系は無い。学生の時に先生から良く聞いた言葉です。その言葉の、意味するところは、他の工業製品と異なり、機能一辺倒で問題を解決出来ないと云う事にあります。
他の工業製品で例えば、車でしたら、燃費とかブレーキ性能とか数値で全てが決まります。それらを追求していくと、どの会社も似たり寄ったりのデザインになって行きます。テレビも然りです。受像機としての機能を満足させるため、現在ではテレビの殆どがディスプレイになってしまいました。
機能を追求さえしていけば、良い製品となるのです。
振り返って建築はどうでしょう。機能だけを追求していても決して良い建物にはなりません。断熱性能でQ値が低い事を宣伝文句にしているハウスメーカーがあります。断熱性能ですので、Q値が低ければ間違いなく、Q値の高い家よりも光熱費は下がります。しかし、だからと云って快適な家と云えるでしょうか。
Q値を下げるのは、何も難しい話しではありません。熱の出入りの激しい窓とか玄関と云った開口部を、出来るだけ少なく小さくすれば、簡単に下げる事は出来ます。しかし、そうして出来た家は、薄暗く閉塞感の漂う家になってしまいます。
耐震性能を高めようとと思えば、耐力壁を数多くバランス良く配置してやる事です。しかし数多く入れてしまいますと、大きなリビングルームを設ける事が出来ません。
建築には、人が心地よいと感じなければ、優れたモノにはならないと云う側面があるのです。人に心地よいと云う事象を、数値で表現する事は出来ません。
建築には数学の問題と国語の問題が同居しているのです。
どちらのセンスが欠けても失敗する
数学的なセンスのみで家を建てれば、南極の昭和基地の様な箱に窓がついた様な家になるでしょう。国語的なセンスのみで家を建てれば宇治の平等院の様な建物になるでしょう。昭和基地の住空間は外気が氷点下50度になっても、半袖で過ごせる機能を求めています。その為、窓は開閉することなく必要最小限の大きさしかありません。
宇治の平等院は池の向い側の正面から見ると、涙が出るほどに美しい姿をしています。藤原頼道の感性に任せたこの建築物は、実は機能しているのは中央の本堂だけで、両翼の建物は人が歩けないほどに背の低い渡り廊下になっているのです。実際のところ何の機能も果たしていません。美しく見せる為だけの飾り物です。
人が住宅を考える場合、どちらのセンスも欠けてはいけないのです。数学的なセンスが無いから、構造や温熱性能の難しい部分は専門家にお任せすると云う態度は、住んでから、暑い寒いと云った不満や、地震の不安となって現れます。なにも、建築の勉強を初めから行う必要はありませんが、少なくとも専門家の説明を理解する程度の知識は必要です。難しくて判らないからと、自分でブラックボックスを造ってしまえば、専門家のセンスに頼るしかありません。しかし、その専門家は、貴方の性能に対する要望をどの程度把握しているのかは、まったく未知なのです。
判らないからお任せしますと云ってしまえば、世間一般の標準で家を造られてしまいます。それで貴方が満足出来れば問題は無いのですが、今後数十年住まい続ける家に対して、現在の標準で家を建てて満足できるものでしょうか。
今の常識が疑われている
「この家は関東大震災が来ても大丈夫ですよ」と、普通の家を頼めば専門家はそういいます。これは、関東大震災の時に検出された重力加速度400galに耐えられる家を、建築基準法の根拠にしている為です。この根拠は昭和26年に、建築基準法が定められて以来、変わっていません。これを耐震等級1と定めています。
しかし、阪神大震災では、819galの重力加速度が観察されています。また、最近の地震では、局地的には2000galを超える重力加速度も観測されています。
熊本地震では、建築基準法の1.25倍の強度を持つ、耐震等級2の家が倒壊しています。
貴方がなにもリクエストせず、専門家にお任せしますと云ってしまえば、今の基準の400galにしか耐えられない家を造られてしまいます。