「時間は平等」のウソ
昨日は阪神淡路大震災から25年。
当日、私は京都の自宅マンションで横揺れとも縦揺れとも言えない揺さぶりで起こされました。本棚や食器棚の中身はほとんど床に落ちて足の踏み場がない状態でした。
テレビを観るとどこの局からも地震情報が流れ、時間が経つにつれ至るところで火災が発生していると報道していました。もちろん、京都も余震を感じていたのでただ事ではない意識はありました。
当時、建築設計事務所を経営していたので、建物耐震診断や応急危険度判定士の資格を有し、事務所で登録していたので京都府か京都市から応急危険度判定で神戸に行けるかどうかと打診がありました。
震災翌日から仲間とマイクロバスに乗り合わせて神戸に向けて走りましたが、高速道路は走れなかったので一般道を渋滞を避けながら何時間もかけて行ったのを、昨日のことのように思い出します。
現地入りすると、他府県から同職の仲間が集まり、打合せ後、二人一組で二次災害を避けられる地域に入り、下のようなシールを持って建物を判定して歩きました。まるで戦場のような光景を目の当たりにし、復興には何年かかるのだろうという絶望感がよぎりました。
現地で無神経な報道スタップやキャスターを観ていると、あぁ、これが日本の報道のあり方なんだと悲しくなりました。一方で他府県から多くの方がボランティアで神戸に入っていました。
神戸には東北の福島からボランティアで来られている方がおりました。後にその方は東日本大震災で被災し、神戸からボランティアで入った知り合いの方と再会するハプニングもありました。
その時に東日本大震災で被災した方がおっしゃっていたのは、「私が神戸にボランティアで行かなかったら、そして神戸の教訓がなかったら私は助かってなかった」と涙ながらに話していました。
震災から25年目の今日、被災者の方も現地に入った専門家も、震災による悲しみの教訓は生かされていると信じています。
神戸は新しい街になっているが、一部の区画では何もかも開発で飲み込んでしまって昔の面影はどこにもない。人間の文化は古いものと新しいものが混在し、古くから培ってきた人たちの仕事も続けられるような開発が望ましいと思っています。
自然災害に人間が立ち向かうことはできませんが、私たちは、人と人の繋がりを大切に刻み込んで、次の世代に向けて古の歴史や文化を語り継ぐことはできるのではないでしょうか。
地震の活動期に入っている日本列島に住んでいる限りは、自然災害への覚悟をココロに刻み、いつ地震が起きても不思議ではないことを、忘れないでいることが自分の命を守ることです。
阪神淡路大震災の教訓として子どもたちの通う学校の耐震強化が全国で始まりました。東日本大震災では、いち早くその教訓を活かしていたので被災者の方の多くは学校に避難していました。全国的にはまだ不十分ですが、学校に避難すれば安全というところまで耐震強化はもちろん、食料や医療物資の備蓄もしてほしいものです。