撤退戦略は、成長戦略よりも、ずっと難しい
経営者の交渉では、論理的に正しいことを説明するだけでは、望む結果を得られないことがあります。
価格交渉、大口顧客との契約更新、M&Aや資本提携交渉。こうした局面では、自社と相手企業の双方が、それぞれ異なる利益と損失を抱えています。
したがって交渉力とは、単なる話術ではありません。
「この条件を受け入れなければ、この会社は本当に交渉から降りるのか」「こちらがさらに要求すれば、相手はどこまで抵抗するのか」「決裂した場合、どちらがより大きな損失を受けるのか」という、相手の認識によって交渉方法は大きく変わります。
狂人理論(Madman Theory)とは何か?
国際政治の世界には、その極端な形として「狂人理論(Madman Theory)」と呼ばれる考え方があります。
狂人理論とは、交渉相手に、「この人物は、こちらが想定している合理的な範囲を超えた行動まで選ぶかもしれない」と認識させることで、抑止や譲歩を引き出そうとする戦略を指します。
私は、この狂人理論を、そのまま企業経営へ持ち込むべきだとは考えていません。むしろ経営者が学ぶべきなのは、その背後にある交渉力の構造です。
狂人理論という言葉は、リチャード・ニクソン米大統領の外交戦略を説明する際に広く知られるようになりました。
ニクソン政権では、ベトナム戦争をめぐる交渉などにおいて、米国がどこまで軍事的にエスカレーションするのかを相手に確信させないことが、交渉上の圧力として意識されていました。狂人理論は、ニクソン外交を分析するうえで使われてきた一つの概念として使われはじめました。
現在の国際政治でも、予測困難な発言、関税、軍事的圧力などを組み合わせた外交を、狂人理論や「戦略的不確実性」という観点から分析する研究者や論者がいます。重要なのは、特定の政治家が実際に狂人理論を意図的に採用していると断定することではありません。
経営者が学ぶべきなのは、その戦略が成立するとされる論理です。
狂人理論(Madman Theory)とは、「自分は、相手が当然選ぶと予想している合理的行動だけを選ぶとは限らない」と認識させることによって、相手の意思決定に不確実性を生じさせる戦略です。
もっと平たく言えば、「この条件を押し続ければ、本当に交渉そのものを壊すかもしれない」と相手に考えさせることです。
狂人理論の基礎にあるメカニズム
経営実務の観点から見ると、私は三つに整理できます。
① 不確実性が、相手に最悪のケースを考えさせる
合理的な交渉相手であれば、「ここまでは譲るだろう」「この金額以下にはならないだろう」という予測ができます。
しかし、相手が本当に撤退する可能性があると認識すれば、交渉担当者は、「契約自体を失う可能性」まで計算しなければならなくなります。
② 脅しではなく、実行可能性が交渉力になる
「撤退する」と口で言うだけなら、誰でもできます。重要なのは、相手が、「この会社には、本当に撤退できる準備がある」
と考えることです。
つまり、交渉力をつくるのは言葉の強さではなく、選択肢の強さです。
③ 決裂した場合の損失を、どちらが負担できるか
交渉では、「絶対に契約したい会社」よりも、「条件が合わなければ契約しなくてもよい会社」の方が、一般に強い立場を取りやすくなります。
交渉術として、狂人理論を活用する その効果とリスク
企業経営で狂人理論から学ぶ際に、私は一つの原則を置くべきだと考えます。
狂人を演じるのではなく、「本当に断れる会社」をつくる。
これが本質です。
狂人理論を交渉術に活用する注意点
狂人理論を企業経営へそのまま持ち込むと、大きな危険があります。
怒る、脅す、突然条件を変える、相手を困らせる。こうした行動は、一時的に相手を譲歩させても、長期的な信用を壊す可能性があります。したがって、ビジネスでは「狂人らしさ」を演出するのではなく、狂人理論の背後にある交渉力だけを取り出して使うべきです。
制御された不安定さ”を演出する
私は、ビジネスでは「不安定さを演出する」という発想自体を、できる限り避けた方がよいと考えています。その代わりに必要なのは、「ここから先は譲らない」という境界線を明確にすることです。
例えば、
- 赤字になる価格では受注しない
- 支払条件が一定水準を超えれば契約しない
- 自社の法務・品質基準を満たさない取引は断る
という経営方針を明確にします。
普段は柔軟に交渉する。しかし、決めた一線を越えれば、本当に断る。
これを繰り返すと、相手は、「この会社には譲れる条件と、譲れない条件がある」と理解します。
BATNAを過激に見せる
ここも、私は発想を変えるべきだと思っています。
BATNAをしっかり作り、それをしっかりと相手に見せる方法です。
BATNAとは、Best Alternative to a Negotiated Agreement。つまり、現在の交渉が成立しなかった場合に取ることのできる、最善の代替案です。
大口顧客との価格交渉なら、他の顧客を開拓しておく、別市場へ販売できるようにする、不採算製品から撤退できるようにする、固定費を下げ、売上が減っても耐えられる財務体質をつくる。
こうしたことがBATNAを強くします。
相手の競合企業への乗り換えが本当に可能であれば、それもBATNAです。
しかし、存在しない代替先を匂わせることはBATNAではありません。単なるブラフです。強い交渉とは、交渉が決裂しても困らない準備をしている人です。
感情を戦略的に使う
感情についての、慎重に考える必要があります。
交渉研究では、怒りを示すことで相手が「この人は強硬だ」と認識し、一定の条件では譲歩を引き出すことがあるとされています。
しかし、その効果は交渉環境によって異なります。また、怒っていないのに怒りを演じていると相手に認識されれば、信頼を失い、逆に相手の要求を強くする可能性もあります。
したがって私は、「怒りを演技する」ことを交渉テクニックとして常用することは勧めません。
それよりも、「この条件には、私は強く失望している」「この条件では、当社として受け入れられない」「ここは経営方針として譲れない」と、自分の立場を明確に伝える方がよいと思います。
感情は、相手を怖がらせる道具ではありません。自分にとって、その問題がどれほど重要なのかを伝えるシグナルとして使うべきです。
いつも「優しい」イメージを相手に与えておいて、いざというときに、一気に怒気を見せつける
普段から誠実で、穏やかに仕事をしている経営者が、「この条件だけは受け入れられません」とはっきり伝えれば、それ自体に強い意味があります。
その効果は、突然怒鳴るから生まれるのではありません。日頃の信用との対比によって生まれます。
普段から約束を守る。無理な要求をしない。相手の立場も考える。問題が起きても感情的に責めない。
そのような人物が、ある一点について明確に拒絶する。だから相手は、「ここは本当に譲れないのだ」と認識します。
経営者がつくるべき評判は、「あの人は怒らせると怖い」ではありません。「普段は合理的で誠実だが、原則を曲げる人ではない」という信用です。
最終通告の信憑性を高める
交渉で最も危険なのは、実行するつもりのない最終通告です。
「この条件でなければ撤退します」と言いながら、結局撤退できない。これを繰り返せば、その会社の言葉は信用されなくなります。
最終通告を使うなら、
- 本当に撤退できる
- 決裂後の資金繰りを確認している
- 代替顧客・代替取引先がある
- 社内で撤退方針を共有している
という準備が必要です。
最終通告の強さは、声の大きさではありません。実行能力です。
ビジネスでの活用シーン
狂人理論の背後にある、「決裂を恐れない側に交渉力が生まれる」という構造は、ビジネスのさまざまな場面で重要です。
価格交渉(強気値付け)
典型的なのが、大口顧客との価格交渉です。
売上の多くを一社へ依存している会社は、「取引を失ったら困る」という事情を相手にも読まれています。この状態で、「値下げには応じません」と強く言っても、交渉力はそれほど高まりません。
本質的な問題は、話し方ではなく顧客依存です。
したがって、経営者が最初に行うべきことは、
- 顧客ポートフォリオを分散する
- 採算ラインを明確にする
- 案件別の粗利を把握する
- 不採算案件を断れる財務体質をつくる
ことです。
そうすれば、「この価格以下なら受注しません」という言葉が、本当の意味を持つようになります。
価格決定力は、交渉テクニックだけではつくれません。経営構造からつくるものです。
M&A・資本交渉
M&Aでも同じです。
基本合意後、デューデリジェンスや契約交渉に多くの時間と費用を使うと、売り手も買い手も、「ここまで進めたのだから、何とか成約したい」という心理になりやすくなります。
しかし、ここにはサンクコストの問題があります。
すでに使った費用や時間は、将来の条件が悪くなったからといって戻ってきません。
したがって、「ここまで費用を使ったから、この条件でも成立させよう」という判断は危険です。
M&Aで必要なのは、狂人理論よりも、事前の撤退条件です。
- 価格がどこまで変われば撤退するか
- 表明保証や補償条件をどこまで受け入れるか
- 重大なデューデリジェンス事項が出た場合どうするか
- 代替買い手・代替案件があるか
を、交渉が熱くなる前に決めておきます。そして条件を超えた場合には、本当に撤退する。M&Aで強い交渉者とは、成約に執着しない交渉者です。これは売り手にも買い手にも共通します。
組織統制・社内政治
一方、組織内部で狂人理論を使うことについて、私は勧めません。
社長が、突然人事を変える、その日の気分で評価を変える、予告なく方針を覆す、怒るかどうか分からない状態をつくる。
これを「トップの迫力」と考えてはいけません。社員が社長の顔色を読みながら仕事をする会社では、悪い情報ほど上がってこなくなります。
経営者が組織内部につくるべきものは、予測不能性ではなく、「判断基準は明確であり、その基準に従ってトップは本当に決断する」という信用です。
社外交渉では一定の戦略的不確実性が役立つ局面があったとしても、社内経営には、透明性と一貫性の方がはるかに重要です。
狂人理論の危険性
狂人理論には、根本的な弱点があります。
一つは、信用を消耗することです。
予測不能な行動を繰り返せば、相手は恐れるかもしれません。しかし同時に、「長期取引には向かない」と判断する可能性もあります。
二つ目は、ブラフを実行せざるを得なくなる危険です。
強い脅しを出して相手が譲らなかった場合、こちらには、実行する、あるいは撤回するという二つしか選択肢がなくなります。
実行すれば、自分にも大きな損害が出るかもしれません。
撤回すれば、次回から脅しの信憑性を失います。
三つ目は、相手にもエスカレーションを誘発することです。
相手も強硬姿勢を取れば、双方が本来望んでいなかった決裂へ進むことがあります。
だから私は、狂人理論を、「強い経営者になるためのテクニック」として理解するべきではないと思っています。
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