会社を伸ばす経営者の成長戦略|生成AI時代に必要な「能力を超える挑戦」とは
社長の服装やスタイルと、会社への与信や成長性の関係性
経営者の信用は、どこから生まれるのでしょうか。
技術力。
商品力。
財務内容。
実績。
専門知識。
約束を守ること。
当然、こうしたものが信用の中心です。
それでは、服装や身だしなみは、経営にとってまったく関係のないものなのでしょうか。
私は、そうは考えていません。
ただし、
「高価なスーツを着れば信用される」
「ネクタイを締めれば会社が成長する」
というほど、ビジネスは単純でもありません。
私は、経営者の信用には、大きく分けて二つの側面があると思っています。
一つは、時間をかけて形成される信用です。
仕事の実績。
約束を守ること。
成果を出すこと。
困難が起きた時の対応。
社員や取引先への姿勢。
こうしたものは、長期間の行動によってしか形成できません。
そしてもう一つが、まだ十分な関係ができていない段階で相手が受け取る、最初の印象です。
服装。
表情。
立ち居振る舞い。
言葉遣い。
時間の守り方。
名刺の渡し方。
人の話を聞く姿勢。
これらは、経営能力そのものではありません。
しかし、相手がこちらについて十分な情報を持っていない段階では、
「この人は、この場をどのように理解しているのか」
「自分との面談を、どの程度重要なものとして考えているのか」
を判断する材料になります。
ここが、私は重要だと思っています。
服装とは、自分を飾るためだけのものではありません。
ビジネスにおける装いとは、「自分がどう見られたいか」という自己表現であると同時に、「相手と、この場をどのように尊重しているか」を伝える非言語のコミュニケーションでもある。
私は、長いビジネス経験を通じて、そう考えるようになりました。
生成AIが普及した現在、この問題は、むしろ興味深くなっています。
文章を書く。
メールを整える。
プレゼンテーションの構成を考える。
情報を要約する。
提案書のたたき台をつくる。
こうした知的作業の多くを、AIが支援できるようになりました。
これは、経営者にとって大きな生産性向上の機会です。
しかし、整った文章をつくることと、信用される人間になることは、同じではありません。
AIがつくった提案書を、最終的に誰が説明するのか。
難しい質問を受けた時、誰が答えるのか。
想定外の問題が起きた時、誰が判断するのか。
約束した結果が出なかった時、誰が責任を負うのか。
そこには、必ず人間が残ります。
だからこそ私は、生成AI時代の経営者には、デジタル技術を使う能力と同時に、自分自身がどのような信用を相手に伝えているのかを考える視点が必要だと思っています。
私が約10年間、グループ会社の取締役を務めたベンチャー企業グループのY副社長の事例
私が独立する以前、企業役員として仕事をしていた時代に、人事・営業組織を統括していたY副社長という方がおられました。
非常に規律を重視される経営者でした。
特に印象に残っているのが、お客様を訪問する営業担当者の身だしなみに対する考え方です。
当時、Y副社長は、営業担当者に対して、顧客を訪問する場ではきちんとしたビジネススタイルを守ることを徹底しておられました。
夏場でも、顧客との面談では服装を整えることを重視されていました。
当時の私は、
「ここまで服装を厳格にする必要があるだろうか」
と感じることもありました。
しかし、長くその組織を見ているうちに、私の見方は変わりました。
重要だったのは、ネクタイそのものではなかったのです。
Y副社長が社員へ伝えていたのは、
「営業とは、自分が好きな格好で相手の前に立つ仕事ではない」
という考え方だったのだと思います。
相手は、どのような会社なのか。
どのような役職の方に会うのか。
何の目的で訪問するのか。
自分は会社を代表して、どのような印象を残すべきなのか。
それを考えて、服装を選ぶ。
つまり、身だしなみを通じて教えていたのは、相手の立場から自分を見る習慣でした。
私は、ここに非常に重要な経営教育が含まれていたと思っています。
営業担当者が、
「自分が不快でなければよい」
ではなく、
「相手は、どう受け取るだろうか」
と考える。
これは服装だけの問題ではありません。
提案書にも表れます。
電話の仕方にも表れます。
メールにも表れます。
時間の守り方にも表れます。
そして、顧客の課題をどこまで真剣に考えるかにも表れます。
身だしなみを考えることは、突き詰めれば、自分中心ではなく相手中心でビジネスを考える訓練でもある。
私は現在、そのように理解しています。
フォーマルビジネススーツの少史
ビジネスにおける服装は、時代とともに変わってきました。
私自身が社会人になった頃と現在とでは、日本企業のドレスコードは大きく異なります。
かつては、男性のビジネスパーソンがスーツとネクタイを着用することが、かなり広く共有された習慣でした。
しかし、その後、働き方も産業構造も変わりました。
IT企業やスタートアップが成長し、成果や専門性を重視する文化が広がりました。
さらに、夏季の軽装も定着しました。
現在では、スーツを着ていないこと自体が、ビジネス上の失礼を意味する時代ではありません。
私は、この変化自体を否定的には捉えていません。
むしろ、服装の選択肢が増えたことによって、経営者には以前より高度な判断力が求められるようになったと思っています。
昔は、
「とりあえずスーツとネクタイを着ておけばよい」
という共通ルールがありました。
現在は違います。
相手。
場所。
業界。
目的。
国。
文化。
季節。
自分の役割。
これらを考え、自分で服装を選ばなければなりません。
自由になったということは、判断しなくてよくなったということではありません。
むしろ、判断する責任が自分へ戻ってきたということです。
昭和 バブル時代 日本人ビジネスマンのスーツ姿は、世界を怖れさせた
戦後、日本企業は高度経済成長を経て、世界市場へ進出していきました。
製造業。
商社。
金融。
さまざまな日本企業が海外へ展開し、日本のビジネスパーソンも世界各国で仕事をするようになりました。
その時代、スーツとネクタイは、国際ビジネスの共通言語に近い役割を果たしていました。
しかし、私は今になって振り返ると、当時の日本企業が信用された理由を、スーツ姿だけに求めるべきではないと思っています。
商品の品質。
納期を守ること。
組織として仕事を遂行する力。
取引を継続する姿勢。
そして、そのような企業文化と一体となったビジネススタイル。
服装は、その一部だったのでしょう。
ここでも重要なのは、
「スーツを着ていたから信用された」
という因果ではありません。
会社の仕事の質、社員の行動、言葉遣い、約束、そして装いまでが、一つの企業文化として整合していたことに意味があったのだと思います。
信用とは、一つの要素だけでできるものではありません。
90年代、ドレスコードで入ることを断られた、ウオール街の高級レストラン
私は1990年代から約10年間、ニューヨークを中心とする金融・経営の世界で仕事をしました。
その頃、私自身も服装について考え方を変えた経験があります。
日本の銀行で仕事をしていた私は、ニューヨークでも、日本で着ていたようなビジネススーツで仕事を始めました。
すると、現地で仕事を始めた際、上司から服装について助言を受けました。
顧客には企業経営者や富裕層もいる。
その相手の前に立つ以上、自分の専門能力だけでなく、専門家としてどう見えるかについても責任を持つべきだ。
そのような趣旨の話でした。
最初は、日本との文化の違いに戸惑いました。
しかし、実際にニューヨークで仕事を続ける中で、私はその意味を理解するようになりました。
顧客は、こちらの履歴書を毎回読み直してから会うわけではありません。
専門家として会った瞬間から、
話し方。
態度。
準備。
服装。
資料。
質問への回答。
これらを総合して、
「この人物へ重要な仕事を任せてよいか」
を判断しています。
当時のニューヨークには、服装規定を設けたレストランなどもあり、私自身、ビジネスにはそれぞれの場に応じたコードがあることを強く意識するようになりました。
この経験から私が学んだのは、高価な服を着るべきだということではありません。
プロフェッショナルである以上、自分の能力だけではなく、自分が相手へどのような安心感を与えているのかまで考える責任がある。
ということでした。
この考え方は、現在の私にも残っています。
堀江貴文氏の服装は、当時、革命的だったが・・・
その後、日本のビジネス社会では、服装に対する考え方が大きく変わりました。
IT産業の成長やスタートアップ文化の広がりとともに、
「仕事ができることと、スーツを着ることは別だ」
という考え方が広がりました。
私は、この変化には大きな意味があったと思っています。
形式を守っているだけで、仕事ができるとは限りません。
ネクタイをしていても、約束を守らない人は信用できません。
高価なスーツを着ていても、顧客の課題を理解できなければ、プロフェッショナルとは言えません。
服装の自由化は、こうした形式と実質を分けて考えるきっかけにもなりました。
一方で、ここで別の問題が生まれます。
「服装は自由である」
ことと、
「服装について何も考えなくてよい」
ことは、同じではありません。
Tシャツが適切な場もあります。
ノーネクタイの方が自然な業界もあります。
スーツを着ることで、逆に距離を感じさせる顧客もいます。
しかし、フォーマルな装いが相手への敬意を伝えやすい場もあります。
重要なのは、スーツかTシャツかという二択ではありません。
自分の好みではなく、「この場では、どの装いが最も適切なのか」を判断できることです。
この判断力そのものが、経営者の社会性だと私は思っています。
生成AI時代にも、同じことが言えます。
AIを使えば、整った文章はつくれます。
しかし、
誰に何を伝えるべきか。
どこまで説明するべきか。
どの言葉は使うべきではないか。
どの場面では直接会うべきか。
どの服装で行くべきか。
こうした文脈を読む力は、経営者自身が磨かなければなりません。
今、あえて、私は、ネクタイの着用をはじめてみた!
私自身も、独立後しばらくは、ネクタイを着用しない比較的柔らかいビジネススタイルを選ぶことが多くありました。
その方が、自分の仕事や時代に合っていると思っていたからです。
しかし、URVグローバルグループの事業領域が広がり、私自身が接する相手も変化するにつれて、改めて自分の装いを考えるようになりました。
大企業の経営者や役員。
金融機関。
海外企業。
各分野の専門家。
経済界の方々。
重要なのは、その方々に媚びることではありません。
相手が重要と考えている場へ出る時、こちらもその場を重要だと考えていることを、言葉以外でも示すことです。
そこで私は、必要な場面では、再びスーツとネクタイを選ぶようになりました。
ただし、毎日必ずネクタイを着用することを、自分のルールにしたわけではありません。
カジュアルな服装を選ぶ日もあります。
暑い時期には、当然、気候も考慮します。
海外では、その国の文化も考えます。
大切なのは、服装を固定することではなく、意識して選ぶことです。
私は、
「昔はこうだったから」
という理由だけでスーツを着るつもりはありません。
また、
「今はカジュアルな時代だから」
という理由だけでスーツを脱ぐつもりもありません。
自分は今日、誰と会うのか。
その場で、自分はどのような責任を負っているのか。
その相手に、どのような敬意を示すべきなのか。
そこから服装を決める。
現在の私にとって、装いとは、そのようなものになっています。
逆張りの勧め あえて、提言する 社長のフォーマルスーツは、会社の成長にプラスになる! 」
ここまで書いてきましたが、私は、すべての経営者にフォーマルスーツを勧めたいわけではありません。
むしろ、この記事で伝えたい結論は、その逆に近いものです。
服装に唯一の正解はありません。
業種によって違います。
国によって違います。
顧客によって違います。
場によって違います。
だからこそ、経営者自身が考えなければなりません。
服装は個人の自由です。
しかし、ビジネスでは、相手にも評価する自由があります。
これは服装だけではありません。
言葉遣い。
時間。
資料。
メール。
姿勢。
表情。
約束。
問題が起きた時の対応。
すべて同じです。
経営者は、自分がどのような人間であるかを、自分で説明するだけでは十分ではありません。
相手は、こちらの行動全体から判断します。
だからこそ私は、経営者の信用を、次のように考えています。
能力があること。
成果を出すこと。
誠実であること。
約束を守ること。
自分の発言に責任を持つこと。
相手と場に応じた振る舞いができること。
そして、それらが長期間にわたって一貫していること。
服装は、その中の一つにすぎません。
しかし、一つにすぎないからといって、無意味なのでもありません。
生成AIが発展すれば、文章、資料、画像、情報整理など、これまで「仕事ができる人らしさ」を表現していた外形の一部は、これまでより簡単につくれるようになります。
それでも最後には、
この人は約束を守るのか。
困難な時に逃げないのか。
知らないことを、知らないと言えるのか。
相手を尊重できるのか。
自分の会社を代表しているという自覚があるのか。
という、人間そのものの評価が残ります。
私は、それを「信用」と呼んでいます。
信用とは、服装でつくるものではありません。
しかし、その人が持っている信用や仕事への姿勢は、服装を含む細部にも表れる。
長くビジネスをしてきて、私はそう感じています。
経営者が考えるべきなのは、
「スーツを着るべきか」
という問いだけではありません。
「自分は、相手からどのような経営者として見られているのか」
「自分の行動と、自分が語っている会社の価値観は一致しているのか」
「社員は、私の振る舞いを見て、この会社が何を大切にしていると理解するだろうか」
という問いです。
服装。
言葉。
時間。
資料。
約束。
意思決定。
そして、責任の取り方。
これらは別々のものではありません。
その積み重ねによって、経営者の信用が形成されます。
生成AIによって仕事の方法が大きく変わっても、この原理そのものは、おそらく変わりません。
むしろ、表面的に整ったものを誰でもつくれる時代だからこそ、その背後にある人間の一貫性が、以前より見られるようになるのではないか。
私は、そのように考えています。


