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現代のイスラエルが成立するまで
前回の発信では、古代イスラエルの成立、ヘブライ聖書とユダヤ教の形成、イエスの登場と初期キリスト教、さらにヨーロッパ社会における反ユダヤ主義の形成までを見てきました。
今回は、そこから一気に現代へ向かいます。
国家を持たない共同体として長期間にわたって世界各地に暮らしてきたユダヤ人の中から、なぜ19世紀末に、自らの民族的な政治共同体を建設しようとするシオニズムが生まれたのか。
なぜ、その場所としてパレスチナが選ばれたのか。
第一次世界大戦において、大英帝国を中心とする列強は、この地域の将来について、どのような約束と構想を持ったのか。
そして、そこに暮らしていたアラブ系住民と、ヨーロッパなどから移住するユダヤ人との間で、なぜ政治的・民族的対立が深まったのか。
さらに、ホロコーストを経て、1948年にイスラエルが成立したことが、なぜ同時にパレスチナ難民問題の出発点になったのか。
現在のイスラエル・パレスチナ問題を理解するためには、この一連の歴史を避けて通ることはできません。
そして、ここでも重要なのは、問題を「ユダヤ教とイスラム教の宗教対立」だけに還元しないことです。
宗教は重要です。
エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの宗教にとって、特別な意味を持つ土地です。
しかし、現在の対立を形成した直接的な要因には、
民族主義。
帝国主義。
植民地統治。
民族自決。
移民。
土地。
難民。
安全保障。
そして大国間外交。
という、近代特有の政治問題が重なっています。
現代のイスラエル・パレスチナ問題は、古代から続く宗教戦争ではありません。
古代から受け継がれた宗教的・歴史的記憶の上に、19世紀から20世紀の民族主義と帝国主義が重なって形成された、きわめて近代的な政治問題でもあるのです。
ここを理解することが、イスラエルを見るうえで非常に重要です。
イスラム世界・オスマン帝国と、近代シオニズムの成立
7世紀、アラビア半島でムハンマドの宣教を契機としてイスラム教が成立しました。
イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教と無関係に生まれた宗教ではありません。
アブラハム。
モーセ。
ダビデ。
イエス。
こうしたユダヤ教・キリスト教でも重要な人物の多くを、イスラム教も預言者として位置付けています。
イスラム教徒にとってムハンマドは、こうした預言者の系譜を完成させる「最後の預言者」です。
そして、アッラーとは別の神の名称ではなく、アラビア語で「神」を意味する言葉です。
一方で、キリスト教がイエスを神の子として理解し、三位一体を教義とすることについて、イスラム教は厳格な一神教の立場から認めません。
このように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、共通する宗教的伝統を持ちながら、神学上は重大な違いを持つ宗教でもあります。
ムハンマドの死後、イスラム共同体はカリフのもとで急速に拡大しました。
7世紀には、エルサレムを含む現在のパレスチナ地域もイスラム勢力の支配下に入ります。
その後、この地域はさまざまな王朝や勢力によって統治されました。
十字軍によるエルサレム占領もありました。
サラディンによる奪還もありました。
マムルーク朝の時代を経て、16世紀にはオスマン帝国の支配下に入ります。
1517年以後、第一次世界大戦期まで、およそ400年間、パレスチナは基本的にオスマン帝国の統治領域にありました。
ここでも、歴史を単純な「キリスト教対イスラム教」の戦争として理解するべきではありません。
戦争はありました。
宗教対立もありました。
しかし同時に、異なる宗教共同体が交易し、同じ都市に暮らし、経済や文化を共有した時代も長く存在しています。
エルサレムそのものが、その複雑さを象徴しています。
ユダヤ教にとっては、古代神殿とダビデ王国の記憶を持つ場所です。
キリスト教にとっては、イエスの受難と復活の場所です。
イスラム教にとっては、預言者ムハンマドの夜の旅と昇天の伝承に結びつく、メッカ、メディナに次ぐ重要な聖地です。
つまり、エルサレムとは、単に土地を奪い合う場所なのではありません。
複数の宗教が、それぞれ異なる歴史的記憶を重ねてきた場所なのです。
そして、19世紀末になると、この地域をめぐる問題に、新しい思想が加わります。
それが、シオニズムです。
シオニズムは、ホロコーストの後に突然生まれた運動ではありません。
近代ヨーロッパで民族国家という考え方が広がる一方、ユダヤ人への差別や反ユダヤ主義がなお根強く存在していた19世紀末に、近代的な政治運動として形成されました。
ヨーロッパ各国では、ユダヤ人に市民権を認める動きが進みました。
しかし、法的な解放が進んでも、社会的な反ユダヤ主義が消えたわけではありません。
「ユダヤ人は、それぞれの国へ同化すれば、安全に暮らせるのか」
という問いに対し、
「ユダヤ人自身の民族的な政治共同体が必要なのではないか」
と考える人々が現れました。
この政治的シオニズムを代表する人物が、テオドール・ヘルツルです。
1897年、ヘルツルはスイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開催しました。
その目標は、ユダヤ民族のための、国際法によって保障された郷土をパレスチナに建設することでした。
ただし、ユダヤ人全体が最初からシオニズムを支持していたわけではありません。
宗教的理由から反対するユダヤ人もいました。
ヨーロッパ各国への同化を望む人々もいました。
社会主義を通じた解放を求める人々もいました。
シオニズムそのものにも、政治的シオニズム、労働シオニズム、宗教シオニズムなど、複数の潮流があります。
つまり、
「ユダヤ人=シオニスト」
という理解も正確ではありません。
一方、1880年代以後、実際にパレスチナへ移住するユダヤ人も増えていきました。
彼らは土地を取得し、農村や都市を建設し、ヘブライ語を現代の生活言語として復興させ、政治・教育・労働組織を形成していきます。
こうして、オスマン帝国末期のパレスチナには、もともと暮らしていたアラブ系住民の社会と、新たに形成されていくユダヤ人社会が併存するようになります。
この段階で、後の対立の構造が少しずつ生まれ始めます。
第一次世界大戦と、大英帝国の三重外交
そして、第一次世界大戦が起こります。
当時、中東の広い地域を支配していたオスマン帝国は、ドイツ側に立って参戦しました。
これに対し、イギリスとフランスは、オスマン帝国を内部から弱体化させ、戦後の中東秩序を自国に有利な形で構築しようとします。
この過程で、後にパレスチナ問題を理解するうえで極めて重要になる三つの外交文書が登場します。
ただし、一般に「イギリスの三枚舌外交」と呼ばれるこの問題も、単純に三つの完全に同じ土地を三者へ約束した、と理解すると正確ではありません。
文書ごとに対象地域や表現が異なり、特にパレスチナがどこまで含まれていたのかについては、当時から解釈の対立がありました。
その曖昧さこそが、後の深刻な政治問題になったのです。
第一が、フサイン=マクマホン書簡です。
1915年から1916年にかけて、エジプトの英国高等弁務官ヘンリー・マクマホンと、メッカのシャリーフであるフサインとの間で書簡が交わされました。
イギリスは、オスマン帝国に対するアラブ反乱への協力を求めました。
これに対してアラブ側は、戦後のアラブ独立を期待しました。
しかし、この書簡で示された独立対象地域にパレスチナが含まれるのかについては、後にイギリス側とアラブ側の解釈が対立します。
イギリス政府は後に、パレスチナは約束した独立地域から除外されていたと主張しました。
一方、アラブ側はそうではないと主張しました。
つまり、ここには最初から重大な曖昧さが残されていました。
第二が、1916年のサイクス=ピコ協定です。
イギリスとフランスは、ロシアの同意も得ながら、オスマン帝国領の戦後処理について秘密協定を結びました。
そこでは、中東の広い地域がイギリスとフランスの直接・間接的な支配地域や勢力圏として構想され、パレスチナの一部については国際管理が想定されました。
ここから分かるのは、列強が、民族自決だけを目的として中東の将来を考えていたわけではないということです。
帝国の戦略。
海上交通路。
植民地との連絡。
資源。
フランスとイギリスの勢力均衡。
こうした大国の利益が、戦後秩序の設計に強く反映されていました。
第三が、1917年のバルフォア宣言です。
イギリス外相アーサー・バルフォアは、ロスチャイルド卿に宛てた書簡の中で、パレスチナにおける
「ユダヤ人のための民族的郷土」
の設立を支持する方針を表明しました。
ここで非常に重要なのは、「民族的郷土」と「ユダヤ人国家」は同じ言葉ではないことです。
バルフォア宣言は、その時点で独立したイスラエル国家の建設を直接宣言した文書ではありません。
そして同時に、宣言には、その地域に居住している非ユダヤ人共同体の市民的・宗教的権利を害してはならないという条件も記されていました。
ところが、ここには重大な問題が残されました。
当時のパレスチナには、多数のアラブ系住民が暮らしていました。
しかし、バルフォア宣言は、その人々を政治的な民族共同体としてではなく、
「既存の非ユダヤ人共同体」
と表現しています。
一方で、ユダヤ人については、「民族的郷土」という政治的含意を持つ表現が用いられました。
この非対称性は、その後のパレスチナ人側の強い反発を理解するうえで重要です。
第一次世界大戦後、オスマン帝国は崩壊します。
パレスチナはイギリスの委任統治下に置かれ、1922年に国際連盟が承認したパレスチナ委任統治文書には、バルフォア宣言の内容が取り込まれました。
イギリスには、一方でユダヤ人の民族的郷土の形成を支援し、ユダヤ人移民を促進する責務が課されました。
他方では、そこに住むすべての住民の市民的・宗教的権利を守り、自治制度を発展させる責任も課されました。
この二つの目的を、同じ領域で同時に実現することは容易ではありませんでした。
ユダヤ人移民が増える。
土地取引が進む。
ユダヤ人社会の政治・経済組織が成長する。
これに対して、アラブ系住民の側には、
「将来自分たちは、この土地で政治的多数派としての権利を失うのではないか」
という不安が強まっていきます。
そして、ここから対立は、宗教だけではなく、
「誰がこの土地の政治的主権を持つのか」
という民族自決の問題へ変わっていきました。
1936年から1939年には、パレスチナ・アラブ人による大規模な反英・反シオニズム蜂起が起こります。
その要求には、ユダヤ人移民の停止、土地売却の規制、そして民族独立が含まれていました。
イギリスはこれを軍事力によって鎮圧します。
そして1939年、第二次世界大戦直前に発表した白書で、イギリスは政策を大きく修正します。
ユダヤ人移民を今後5年間で7万5千人に制限し、その後についてはアラブ側の同意を必要とする方針を示しました。
これは、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害が急激に深刻化していた時期でもあります。
ヨーロッパを脱出しようとするユダヤ人にとって、パレスチナへの移住が制限されるという、きわめて重い問題が生じました。
そして第二次世界大戦。
ホロコーストによって、約600万人のユダヤ人が殺害されます。
しかし、ここでも歴史の順序を間違えてはいけません。
ホロコーストがシオニズムを生んだわけではありません。
シオニズムは、それより半世紀近く前から存在していました。
ただし、ホロコーストは、
「ユダヤ人が少数派として他国の保護に依存するだけでは、民族としての安全を保障できないのではないか」
という考えに、極めて深刻な現実性を与えました。
戦後、ヨーロッパには生き残った多数のユダヤ人避難民が残されました。
その一部はパレスチナへの移住を求めましたが、イギリスは引き続き移民制限を維持します。
パレスチナでは、ユダヤ人社会とアラブ人社会の対立だけでなく、シオニスト組織と英国当局との衝突も激しくなります。
もはやイギリスだけでは、この問題を処理することができなくなりました。
そこで1947年、イギリスはパレスチナ問題を国際連合へ委ねます。
国連分割案、イスラエル建国、そして1948年戦争
1947年11月29日、国際連合総会は決議181号を採択しました。
これは、イギリス委任統治領パレスチナを、
ユダヤ人国家。
アラブ人国家。
そして国際管理下に置かれるエルサレム。
に分けることを勧告するものでした。
ここで「勧告」という点が重要です。
これは、当事者同士が合意した和平条約ではありません。
国連総会が提示した分割構想でした。
ユダヤ側指導部は、この分割案を国家建設の国際的な基盤として受け入れました。
一方、パレスチナ・アラブ側の指導部と周辺アラブ諸国は、これを拒否しました。
その理由を、単純に
「アラブ側がユダヤ国家を認めたくなかったから」
とだけ説明するのも十分ではありません。
パレスチナ・アラブ側から見れば、自分たちが人口の多数を占めてきた土地について、外部の国際機関が二つの国家へ分割し、移民によって形成された共同体に主権国家を与えることは、民族自決の原則に反すると考えられました。
一方、ユダヤ側から見れば、長年求め続けてきた民族的な国家を、国際社会が初めて具体的な形で承認する機会でした。
同じ国連分割案が、二つの民族にとってまったく異なる意味を持っていたのです。
決議採択後、パレスチナ内部ではユダヤ人社会とアラブ人社会との武力衝突が急速に激化します。
つまり、1948年5月に周辺アラブ諸国が参戦する以前から、すでに内戦状態に入っていました。
そして1948年5月14日、イギリスによる委任統治の終了を前に、ダヴィド・ベングリオンがイスラエル国家の独立を宣言します。
翌日以降、エジプト、トランスヨルダン、シリア、イラクなどのアラブ諸国の軍隊が戦闘に参加し、第一次中東戦争へと発展しました。
この戦争は、一つの出来事でありながら、現在に至るまで二つのまったく異なる歴史的記憶を持っています。
イスラエル側にとっては、
「独立戦争」
です。
長い離散と迫害を経たユダヤ人が、自らの国家を建設し、その国家を軍事的に守り抜いた戦争として記憶されています。
一方、パレスチナ人にとっては、
「ナクバ」
です。
アラビア語で「大災厄」を意味する言葉です。
戦争によって、およそ75万人規模のパレスチナ人が、それまで暮らしていた家や土地から避難・追放され、難民となりました。
この出来事が、現在まで続くパレスチナ難民問題の出発点となりました。
1948年という同じ年が、ある民族にとっては「国家を取り戻した年」であり、もう一つの民族にとっては「故郷を失った年」として記憶されている。
イスラエル・パレスチナ問題の難しさは、この歴史的記憶の非対称性を理解しなければ見えてきません。
1949年までに、イスラエルと周辺アラブ諸国との間で休戦協定が結ばれました。
その結果、イスラエルは、1947年の国連分割案でユダヤ国家に割り当てられた範囲を超える地域を実効支配することになります。
一方、国連分割案が想定していたアラブ・パレスチナ国家は成立しませんでした。
ヨルダン川西岸はトランスヨルダン、後のヨルダンの支配下に入り、ガザ地区はエジプトの管理下に置かれました。
そして、数十万人規模のパレスチナ難民が、ヨルダン川西岸、ガザ、ヨルダン、レバノン、シリアなどに暮らすことになります。
一方で、イスラエル成立後には、ヨーロッパのホロコースト生存者だけでなく、中東・北アフリカのイスラム圏からも多数のユダヤ人がイスラエルへ移住していきました。
こうしてイスラエルは、短期間のうちに、世界各地から異なる文化と言語を持つユダヤ人を受け入れ、一つの国家社会へ統合していくことになります。
現在のイスラエル社会は、ヨーロッパ系ユダヤ人だけで形成された社会ではありません。
中東。
北アフリカ。
旧ソ連。
エチオピア。
そして世界各地。
多様な背景を持つユダヤ人によって形成されています。
ここまでを見ると、現代イスラエルの安全保障意識の背景が、少し見えてきます。
しかし、ここでも注意が必要です。
ホロコーストや1948年戦争の記憶を知ることは、現在のイスラエル政府のすべての軍事政策を正当化することではありません。
同時に、現在の政策だけを見て、ユダヤ人国家がなぜ安全保障をこれほど重大な問題として捉えるのかという歴史的背景を無視することも、十分な理解とは言えません。
イスラエルにとっては、
国家を持たないこと。
他国の善意だけに安全を委ねること。
軍事的に自国を守れないこと。
これらに対する強い警戒が、20世紀の歴史を通じて形成されました。
一方、パレスチナ人にとっては、1948年以来、
土地を失ったこと。
国家を持てなかったこと。
難民となったこと。
故郷へ帰還できないこと。
という歴史的記憶が残りました。
一方には、「国家を失ってはならない」という記憶がある。
もう一方には、「国家を持てないまま故郷を失った」という記憶がある。
この二つの歴史的記憶が、同じ土地をめぐって重なっている。
ここに、イスラエル・パレスチナ問題の根本的な難しさがあります。
だからこそ、この問題を、単純な善悪、宗教対立、あるいは民族的性格だけで説明することはできません。
宗教。
民族主義。
帝国主義。
植民地統治。
難民。
安全保障。
領土。
そして、相互に異なる歴史的記憶。
これらを重ねて見て、初めて現在の中東情勢の輪郭が見えてきます。
引き続き、Vol.3もお読みください。
https://mbp-japan.com/tokyo/yoshinori-matsumoto/column/5184785/
Vol.2では、近代シオニズムの成立から英国委任統治、国連分割案、1948年のイスラエル建国とパレスチナ人のナクバまでを見てきました。
Vol.3では、1948年以後の中東戦争、1967年の第三次中東戦争、占領地問題、PLO、和平交渉、ハマスの台頭などを通じて、現在のイスラエル・パレスチナ問題がどのように形成されていったのかを考えていきます。


