年収のカラクリ ~年商5億円を超えた経営者たちの、自分の年収の決め方の技~
若い頃から憧れた知的生活に、独立とともに入る
私は長い間、経営の世界で仕事をしてきました。日本の企業で仕事をし、海外で経営と金融の実務を経験し、帰国後は企業経営に携わり、その一方で自ら事業を育ててきました。
そして2017年、企業役員としての仕事に一区切りをつけ、自分自身の事業へ仕事の軸足を完全に移しました。
それまで育ててきた事業をM&Aによって売却し、そこで得た資本も次の事業へ再投資しながら、現在のURVグローバルグループへと事業を広げてきました。
しかし、独立によって変わったのは、仕事の立場だけではありません。
私自身の「学び方」も、大きく変わりました。若い頃の私は、仕事と並行して、資格取得のための勉強をかなり長く続けていました。
資格試験には、明確な試験範囲があります。覚えるべき知識があり、正解があります。一定水準まで勉強すれば、合格という結果も得られます。
これは、専門能力の基礎をつくるうえでは非常に有効な学び方です。
しかし、経営者として自分自身の事業を動かす立場になると、それだけでは足りません。
経営には、試験問題のような正解がないからです。
どの事業へ投資するか。どの市場から撤退するか。誰を登用するか。どの国へ進出するか。どの商品を育てるか。今期の利益を残すのか、それとも将来のために投資するのか。
こうした問いには、教科書の後ろに模範解答が載っているわけではありません。
経営者自身が情報を集め、考え、仮説を立て、判断し、その結果について責任を負うしかありません。
独立した頃から、私の学びは、資格を取得するための勉強から、「よりよい判断をするために学ぶ」という方向へ明確に変わっていきました。
本を読む。専門家から学ぶ。海外へ行く。異なる分野の情報に触れる。考える。自分の事業へ当てはめる。実行する。結果を見る。
そして、もう一度考える。
私にとって現在の「知的生活」とは、この循環そのものです。
学生時代から憧れていた知的生活は、仕事から引退した後に始めるものではありませんでした。むしろ経営という、正解のない意思決定を続ける立場になったからこそ、私には必要な生活になったのだと思います。
ハマトン、そして渡部昇一先生の「知的生活」
私が「知的生活」という言葉を意識するようになったのは、高校生の頃です。
その頃、英語を学ぶ目的もあって、英国の著述家フィリップ・ギルバート・ハマトンの「The Intellectual Life」を英語で読みました。
19世紀に書かれた本です。当然、現代とは社会も生活環境も大きく違います。
それでも、知性というものを、単なる知識量としてではなく、人生全体のあり方として考えるその姿勢には、若い頃の私は強く惹かれました。
その後、大学時代に出会ったのが、渡部昇一先生の「知的生活の方法」でした。
そこに描かれていた知的生活も、単なる「勉強法」ではありませんでした。
本を読む。資料を集める。考える場所をつくる。自分の時間を確保する。散歩をする。人と交わる。
そして、得た情報から自分自身の発想を生み出す。
私は、この考え方に強く共感しました。
特に重要だと思ったのは、知識を集めること自体を目的にしないことです。
重要なのは、得た知識が、自分の中に入り、それまで持っていた別の知識や経験と結びつき、最後には自分自身の考えとして出てくることだと、私は考えています。
経営に置き換えれば、さらに明確です。
経営戦略の本を何冊読んでも、自分の会社の戦略を決められなければ意味がありません。
マーケティング理論を知っていても、目の前の顧客がなぜ商品を買わないのかを考えられなければ、経営には使えません。
海外経営を勉強しても、実際に知らない国へ行き、人と会い、不確実な状況の中で判断できなければ、海外事業は動きません。
知識は、使われて初めて、知恵に近づいていく。
私は、そう考えています。
私の知的生活の実践法
現在の私には、仕事をする場所にも、それぞれ役割があります。都心では、人と会い、会議を行い、顧客やパートナーと仕事を進めます。一方、日野に置いている拠点では、一人で考える時間を大切にしています。
私にとって、経営には、この二つが必要です。
人と会い、情報を得て、実行する時間。
そして、人から離れ、一人で考える時間。
後者がなければ、目の前の仕事を大量に処理することはできても、次に何をすべきかを考えることが難しくなります。
日野の拠点には、本や資料を置いています。
そこで本を読み、資料を確認し、文章を書き、事業計画を考えます。
考えが行き詰まると、外へ歩きに出ます。机に向かっているときには整理できなかった問題が、歩いているうちに突然つながることがあります。
私は、この時間を非常に大切にしています。
経営者という仕事は、周囲から見ると「決断する仕事」に見えるかもしれません。
しかし、その前には、かなり長い「考える仕事」があります。
判断の質は、その前に何を知り、何を考えてきたかによって変わります。
だから私は、忙しくなればなるほど、意識して読書や思索の時間を確保するようにしています。
目の前の仕事だけを処理していると、今日の会社を動かすことはできても、3年後、5年後の会社を考える時間がなくなるからです。
そして、私にとって知的生活は、書斎の中だけで完結するものでもありません。
海外へ出ることも、その一部です。
現地の市場を見る。異なる文化の中で生活する人と話す。知らない産業を見る。自分とは異なる専門分野の人から話を聞く。街を歩く。歴史を読む。
一見すると自分の事業とは無関係に見えるものに触れる。
そうした経験が、何年か後に、まったく違う形で事業構想につながることがあります。
だから私は、学びについて、今は、「すぐに役に立つか」という基準だけで判断しないようにしています。何の役に立つのかわからないまま蓄積した知識や経験が、後になって大きな意味を持つこともあります。
そこに、知的生活の面白さがあります。
AI時代こそ、人間は知的生活を!
生成AIの登場によって、「知識を持つこと」の意味は大きく変わり始めています。
調べたいことがあれば、AIに聞くことができます。
長い資料を要約させることもできます。
複数の情報を整理させることもできます。
文章のたたき台をつくらせることもできます。
これまで人間が長い時間をかけていた知的作業の一部を、AIが非常に短い時間で支援できるようになりました。
私は、この変化を否定的には見ていません。むしろ、積極的に使うべきだと考えています。
しかし、AIによって「学ぶ必要がなくなった」とは、まったく考えていません。
むしろ逆です。
情報を得るコストが下がれば下がるほど、人間には、
何を問うのか。
何を信頼するのか。
どの情報とどの情報を結びつけるのか。
どの選択肢を捨てるのか。
何を実行するのか。
そして、その結果について誰が責任を負うのか。
という能力が重要になります。
経営では、この違いが非常に大きいと思います。
AIは、海外進出先の候補国を整理してくれます。市場規模も比較できます。競合も調べられます。事業計画のたたき台もつくれます。
しかし、最終的に、「この国へ投資する」と決めて、自分の資金を投じ、人を採用し、その結果について責任を取るのは経営者です。
その判断には、数字だけでは表現できないものも入ります。
会社として何を目指しているのか。そして、どこまでリスクを取るのか。
こうしたものを統合して意思決定する必要があります。
だからこそ、AI時代の知的生活とは、知識を暗記するための生活ではなくなるのだと思います。
AIから得られる膨大な情報を材料として使いながら、自分自身で問いを立て、考え、判断し、新しい構想を生み出すための生活。
私は、そのように考えています。
そして、そのためには、自分自身の中に、十分な知識と経験の蓄積が必要です。
何も知らなければ、よい問いを立てることも難しくなります。
歴史を知っているから、現在との違いが見える。
経済を知っているから、市場の変化が見える。
法律を知っているから、制度の意味がわかる。
海外を知っているから、日本の特殊性が見える。
経営を経験しているから、理論と現実の違いがわかる。
異なる分野の知識が自分の中に蓄積されているからこそ、それまで誰も結びつけなかった二つのものを結びつけ、新しい構想を考えることができます。
私は、これからAIの能力がさらに高くなったとしても、このような生活をやめるつもりはありません。
むしろAIを使うことによって、調査や整理に使っていた時間を減らし、読むこと、考えること、人と会うこと、現地を見ること、そして構想することに、もっと多くの時間を使いたいと思っています。
若い頃、私が「知的生活」という言葉に惹かれたとき、それは、どこか静かな書斎の中で本を読む生活のように感じられていました。
しかし、長く経営をしてきた現在、私にとって、その言葉の意味は少し変わりました。
知的生活とは、現実から離れるための生活ではありません。現実をより深く理解し、よりよい判断をし、まだ存在していない未来を構想するために、学び続け、考え続ける生活です。
それが現在の私にとっての、「知的生活」です。


