作業服を着た営業マン
ブランド品を喜ぶのは日本人だけ
ブランドとは、その昔、牛の所有を明確にするため、牛のお尻に付けられた焼き印の事です。本来はブランドに高級品とか、高品質の意味はありません。
ところが、装飾品や服飾品から、ブランドと云う言葉に高級とか、高品質の意味を持って取り入れられるようになり、現在のブランドが定着しています。
しかし、高級とは何でしょう。
有名人がこぞって着ているから、高級なのでしょうか。値段が高いと高級品なのでしょうか。
ブランドの本質は、自分が良いと思っている訳ではなく、他人が良いだろうと考えている、と思っている自分の心理なのです。何か分からないけど人気があり、有名だから良いモノなのだろうと、勝手に思ってしまう自分の心です。
その証拠に、ブランド品は一夜にして陳腐化します。古臭いとか、ゴシップとか、ちょっとケチが付いてしまうと、化けの皮が剥がれた様に、その価値は地に落ちてしまいます。
その傾向は、舶来品好みの日本人に、特に強く現れます。自分の意思で物事を決めず、他人が良いだろうと思っているモノを選んでしまう傾向にあるのです。
レオパレスに見るブランドの本質
今年も、三月になり新卒者が社会に巣立つ季節がやって来ました。都会に出て単身で生活する人も多くいるでしょう。田舎の親は、子供が都会でどの様な暮らしをするのか心配になるものです。住まいにしても、訳の分らない初めて聞くような名前の建物より、全国に名前の通っているレオパレスを選択した人も多くいたでしょう。去年までは。
レオパレスは、賃貸住宅のブランドだったのです。有名だから。。。何か分からないけど、人が良いと考えていそうだから、ここに住む事を選択しているのです。隣の音が煩いとか、造りが粗末とかは、住んでみて分かる事なのです。
モノの本質を見ようともせず、安易に他人が良さそうに思っていると、自分が思ってしまうから、後になって後悔する事になるのです。
ブランドに騙されるのは現生人類の特徴
人間は価値の無いものに価値を見い出す事で、発展成功して来ました。言い換えると、「ウソを信じ込む能力」が人間には備わっているのです。
ネアンデルタール人は、現生人類よりも脳の容量は大きかったと云われています。完全な二足歩行を手に入れ、重心が体の中央に来るようになり、脳の容量に制約が無くなった上に、ヨーロッパ大陸でマンモスを追いながら肉食の生活をしていた(農耕生活の痕跡はありません)のですから、良質のたんぱく質を手に入れた事でしょう。脳が大きくならない理由は何もありません。しかし、喰うか喰われるかの生活でしたので、相手が強いのか弱いのか、モノの本質を見抜く力にその脳の殆どの能力を使っていた事でしょう。つまり、ウソをウソだと見抜き、ウソを信じる事が出来なかったのです。
現生人類は古くから農耕生活をしていました。農耕は単独で生活するよりも集団で生活する方が効率的です。獲物を追い掛けると云う単純な生活よりも、遥かに分業化が進みます。人が増えると人々を束ねるものが必要になります。「それがウソを信じ込む能力」です。
人々を束ねる為に宗教が発達しました。「神」に実体はありません。しかし、神の存在を信じる事で、人々は道徳を学び罪悪を学びました。
「紙幣」と云うタダの紙切れに、一万円と云う値打ちがあると信じ込む事により、経済が発達しました。
現生人類にはウソを信じ込む能力が備わっているのです。ブランド商法とは、そのウソを信じ込む人間の能力を巧みに逆手に取った商売なのです。
ブランド商法から脱却しないと後悔の絶える事はない
モノの本質を追求せず、他人が高評価している(しているだろうと思っている)を選択する方が、本質を見抜く努力をするよりも、遥かに楽な作業です。しかし、ブランドの化けの皮が剥がれてしまうと、大変後悔する事になります。
住まいに例えると、最近ではレオパレスがあります。少し前には秀光ビルドの欠陥問題がありました。その前には姉歯事件のヒューザーのマンションがありました。どちらも社会問題になりましたが、それは本質を見抜けずに、後になってから、騙されたと云って、騒いでいる様に感じてしまいます。
詐欺罪は、他の刑罰に比べ、量刑が緩いと云われています。それは、騙す方が悪いのは勿論ですが、騙される方にも落ち度があった事を問われている為です。
ブランドが詐欺だとは云いませんが、ブランドを妄信してしまう、愚かさを後になって嘆くよりも、本質を見抜く努力をする方が後悔の無い生活を送れるのではと考えます。