立場が変わっても、やはりお墓は必要ありませんか?
人の供養も「合理化」の時代
「お寺さんを呼んでの葬儀やその後の法事などはお金が掛かり、
残された者に負担を掛けるので葬儀も法事もいらない」
「子どもたちは狭いマンション住まいなのでお仏壇を置く場所がない」
「お墓はお参りや掃除が大変なので、お骨は海に撒いてくれればいい」
こんな言葉があちらこちらから聞こえてくる現代社会ですが、
本当に残された者のことを考えての言葉なのでしょうか?
逆に考えると、葬儀も、法事も、お仏壇も、お墓も、
残された者のためでもあるのではないでしょうか。
先日、私と同じ62才で亡くなられた西城秀樹さんの葬儀・告別式には、
多くの関係者と全国から1万人以上のファンが駆けつけられました。
これは、亡き西城秀樹さんのためだけの葬儀でしょうか?
彼と長きに渡り交流のあった友人や関係者の方々や、
多くの全国のファンのための葬儀でもあるのではないでしょうか。
何年かごとの法事を行うことで、普段合わない親戚が顔を合わせ、
故人の思い出話に花を咲かせることが出来るのです。
年末には除夜の鐘、年始には初詣、七五三参り、合格祈願など、
日本人には、神仏に手を合わせ、報告やお願い事をする習慣があります。
お仏壇やお墓には、もっと身近な大切な人の魂が宿っています。
そこに手を合わすことも「負担」でしかないのでしょうか?
何でもかんでもが「合理化」の三文字で片づけられがちな時代に、
感銘を受ける記事が、2018年5月21日の神戸新聞に掲載されていました。
以下、原文のまま、ご紹介させていただきます。
随想「墓の意味」/宮下規久朗さま筆
今月末に娘の5回目の命日を迎える。
神戸市東灘区の高台の墓地に建てた娘の墓に週に一度通っている。
阪急の駅から歩くと半時間ほどかかるが、
1時間ほどそこでぼんやりと過ごすのだ。
一時期、墓や墓制に関する本を漁(あさ)っては読んだ。
日本で公共墓地に墓が建てられるようになったのは近世以降で、
家単位で作られるようになったのは20世紀になってからにすぎないという。
墓地はかつてのように死穢(しえ)として忌避される場ではなく、
「見える他界」にして供養の空間である。
墓に詣でるのは、線香や花を供えて死者を供養するためだけではなく、
死者を思い出して、親しく交流することにある。
墓石はもっとも抽象化された死者の象徴であるといってよい。
近年では角柱型の石塔ではなく、
故人の特質を表した独自のデザイン墓が増えている。
娘の墓石も私がデザインしたものであり、
娘の手紙からとった「ありがとう」という文字を刻み、
魂の象徴である白い蝶と赤い薔薇を象嵌してある。
墓は墓地に集合することで公共化される。
他の墓とともに並ぶことで、
故人が皆と同じ冥界にいることを感じることができるのだ。
私も墓地では、娘がその一員となった死者の世界を想像し、
隣り合う他の墓の主にもなんとなく親しみを感じることができる。
頻繁に墓参りに来る人たちとは顔なじみになってしまった。
娘の友達であろう誰かが、
ときどき花やビールを供えてくれるのもありがたい。
墓地は、故人を思い描き、死者を公共化する空間である。
それは死者のためというより、
残された者が喪失の痛みの中で生きていくための装置であるといえよう。
墓地で過ごす時間は、
今の私の生活で最も大事なひとときとなっているのだ。
「宮下 規久朗(みやした きくろう) 神戸大学院人文学研究科教授」
※2018年5月21日(月)/神戸新聞(夕刊)より引用
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