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若い頃から憧れた知的生活に、独立とともに入る
2007年にアメリカから仕事の本拠を日本に移し、そこから3社の大企業で取締役の役員を拝命して仕事をしていた僕は、2017年2月に、その仕事を打ち切り、3月1日に、株式会社URVプランニングサポーターズの代表取締役に就任し、独立の旗をあげました。副業で作っていた飲食事業が、この段階で売上高10億円を突破していましたので、これをM&Aで売却。その利益を投資して、株式会社URVプランニングサポーターをホールディング会社にし、世界15か国に事業を展開するURVグローバルグループを創業して、URVグローバルグループの進化と拡大に、自分の仕事を集中させる体制に入りました。
それまで、独立の準備という位置づけもかねて、取り続けた資格取得の勉強も、ここで一旦打ち止めにしました。そして、これ以降、僕の知的生活の主軸は、資格取得から、その知識を実務的に転換し、あるいは深め、そして最新情報で武装する知的生活活動に移しました。
僕が、学生時代から、長年に渡って理想的な生活として位置付けていた、知的生活の実践に、勉強の基軸を移したのです。
ハマトン、そして渡辺昇一先生の「知的生活」
高校生の時、英語の読解の練習のつもりで、僕は、ハマトンの「知的生活」を、英語の原書で初めて読みました。英国のキングスイングリッシュで書かれた、格調高く、難解なハマトンの「知的生活」を、僕は、18歳の時、英語力の錬成目的で読了したのでした。同時に、「知的生活」という技術に、自分の将来の生活の理想郷を見出したのです。そして、大学時代、「知的生活」の日本語翻訳で日本に紹介された、上智大学の渡辺昇一教授の「知的生活の方法」という名著に出会いました。
書物を読み、そこからの情報を整理し、その情報を基礎として、自らのアイデアとオリジナルな発想を楽しむ生活を、渡辺教授は、知的生活と定義され、その技術である、書斎術や情報整理術を、この本の中で具体的に展開されておられました。「知的生活の方法」は、今でも、知的生活者のバイブルとして、読まれている名著です。
知的生活に伴う運動不足を補うための身体を健康に保つ方法や、社交的な生活と知的生活を両立するバランス感覚、そして頭脳を明晰に保つ食生活の重要性など、単なる勉強一辺倒の生活ではない、深い生き方への配慮を、ハマトンの知的生活と、渡辺教授の本から、僕は学びとりました。
その知的生活こそ、その後の僕の生活の基礎となる、生活の理想像になりました。
僕の知的生活の実践法
今、URVグローバルグループのホールディングス会社に位置付けている、株式会社URVプランニングサポーターズが本社の住所を置くのは、東京都日野市の、京王線百草園駅に近い僕の家の一つです。仕事の活動や、打ち合わせの中心場所として、港区赤坂と、中央区京橋に、それぞれ会社のオフィスを持ち、六本木ヒルズレジデンスを都内の家に位置付ける僕にとって、この日野市の家は、いわば、「近い別荘」です。
土日や祭日など、集中してオフィスワークをすることが可能な日は、僕は、この日野の家で、仕事をしています。日野市というエリアは、奥多摩から流れてくる多摩川と、高尾陣馬高原から流れてくる浅川が合流する地点にあり、市内には、その支流となる、かつての農業用水が多数の小さい川となって流れています。日野は、まさに、東京では珍しい水郷エリアです。
その川が作る、のどかな光景と、水車小屋も残る光景を、僕は、ウオーキングコースの一つとしています。
僕は、8月のメルマガで発信させていただいた通り、クルーザーを趣味にするだけのことはあって、「水」の風景をこよなく愛しています。
僕の家がある百草園は、京王線の駅としては、各駅停車しか止まらない鄙びた駅ですが、家の後ろにある百草山は、鎌倉時代の大慈悲寺の跡という歴史的な発見が起きた場所で、山からは、東京都の名水百選の一つに数えられる名水が多数の澤を創って、流れ落ちています。この東京都とは思えない静かなエリアに、僕は、知的生活の基盤になる家を構えています。
家のほとんどを書庫が占め、既に数えることができない数の蔵書がそこに収まっており、その中心に、書斎を据えてあります。僕が座る椅子の三方に、机を配置し、大量な本や書類を広げることができる書斎に閉じこもり、僕は、読書三昧に浸り、人生や事業の構想を、散歩をしながら、練り上げています。
六本木ヒルズの家は、早朝から深夜に及ぶ超・長時間の仕事の活動に耐えられる「動的活動拠点」として位置付けているのに対し、日野の家は、じっくりと構想を練り、知的生活を楽しむ「静的な知の拠点」となっています。
AI時代こそ、人間は知的生活を!
資格取得によって得られるナレッジは、記憶という意味では、人工知能によって代替が可能です。しかし、人間の「知」の深淵なメカニズムは、ナレッジや経験が深層心理に積みあがる中から、合目的的なAIの稼働では、何億回積み上げてもえられない知的創造を、いとも簡単に成し遂げてしまうものです。
人工生命論は、地球に生命が誕生し、カンブリア紀の生命多様化をえて、現在に至る生命の進化を、コンピューターテクノロジーによって再現させる試みですが、その最先端技術を使っても、生命多様性の極にある人間の頭脳の働きは、少なくとも21世紀の間には、再現は不可能な「広大な宇宙」のようなものです。更に、僕のような事業家が、何の論理的関連性もない経験値の中から、莫大な収益を生み出す事業モデルを編み出し、それをヒトの組織という不可解かつ不安定な機能を管理して、実行に移すプロセスは、人工知能でも、人工生命でも、再現が不可能な技術です。
AIは、今後、情報収集や整理・分析、そしてコミュニケーションを双方向型で実現する、優れた人間の知のパートナーになることは間違いありませんが、それが、人間の高度に知的な創造を台替えするツールにはなりえません。
「ポストAIが起きえない」時代に生きる僕たちは、AIの機能を最大限に生かしたタスクを武器にしながらも、AIが遥かに及ばない地球の進化の最終系に位置付けられた頭脳を持つ「人間」として、自分の頭脳を、極限まで磨き上げる知的活動に、自分の生きる価値を見出すべきであると、僕は思っています。
その活動こそ、「勉強」という行動なのだと、僕は思います。



