食博の歩き方
東海道は何故険しい鈴鹿峠を越えるのか
東海道は鈴鹿峠を越えて行きます。東の箱根と比肩される、東海道の難所中の
難所です。鈴鹿御前や山賊伝説、坂上田村麻呂の武勇伝等が今に残されています。東国へ行くには他にもルートがあったはずなのに、何故鈴鹿峠を選んだのでしょうか。
この画像の赤線が東海道です。青線は鉄道の東海道線や新幹線、また名神高速道路が通っている米原~関ヶ原~岐阜を経て名古屋に至るルートです。若干遠回りにはなりますが、この方が平坦で楽な道です。その平坦故に鉄道も高速道路もこのルートを選択しています。
では何故、歩く事がメインの東海道は、わざわざ急峻な鈴鹿峠越えを選択したのか。それがずっと謎でした。
実は目的が違った
コロナ禍で繁華街をで歩けない分、運動不足解消にと東海道を歩いてます。3月21日に関宿から土山宿まで歩き、念願の夢だった鈴鹿峠越えを果たしました。行程22km高低差200m(峠は海抜390m)の道程です。
関宿から鈴鹿峠までは、8km程の距離です。関宿からダラダラ坂が坂下宿まで続きます。春ですが、じっとりと汗をかく様なのぼり道が続きます。
坂下宿まで関宿から6kmほどですが、高低差は50mほどです。残り2kmで150mを登る事になります。八丁二十七曲がりと称されるこの急登は、長旅を続けて来た足腰には相当な負担になったはずです。普通の登山ではそれほどでもない強度ですが、登山の様に登る事を目的とせず、距離を歩く事を目的としている者にとっては、相当な難所として立ちはだかった事でしょう。
それなのに、何故鈴鹿峠を選んだのか。
答えは峠の立て札に書いてありました。
画面が小さいので読めないと思いますが、その中に重要な事が二点書かれています。
東海道が開かれたのは886年→江戸はまだ寒村で未開の土地です。
伊勢詣での為に開かれた→東海道は伊勢が終点だった。
京から伊勢へ行くのに開かれた道が東海道だったのです。それを江戸に幕府を開いた徳川家康が、江戸まで東海道を整備し、現在私達が知る東海道になったのです。
東京へ行くのなら、疑問に思う鈴鹿越えですが、伊勢に行くのであれば、わざわざ米原~関ヶ原~岐阜を越えてとなると相当な遠回りとなります。
歩いて初めて判る距離感
鈴鹿峠から土山宿までは約12km関宿側とは異なり、峠付近から土山宿まで緩い下り坂が続きます。
歩きながら考えた事ですが、上下移動は歩く事が、電車や車よりも優れていると云う事です。速さでは、歩く事は全く交通機関に及びませんが、200m程度の山でも、電車や車は越える事が出来ないのです。その為に莫大な費用を掛けてトンネルを掘り、橋を架けるのです。
徳川家康が、江戸まで東海道を整備する際にも、鈴鹿越えを残したのは、必然だったのかも知れません。
蛇足ですが、新名神高速道路は、トンネルや橋を架けて、旧東海道をほぼ同じルートを使っています。