作業服を着た営業マン
子供の頃は飛行機少年で、少年雑誌の挿絵を食い入る様に見ていました。理由はひとえにただただカッコいいからです。この思いは宮崎駿氏も同じ様で、彼のアニメには飛行機が大変よく出てきます。
一昨日封切りされた「風立ちぬ」は、ゼロ戦の設計者として有名な堀越二郎の半生を下敷に堀辰雄の小説「風立ちぬ」のエピソードを織り交ぜて展開して行きます。
偶然にも子供の頃、堀越二郎著の「零戦」と云う本を貪り読んだ記憶があります。その中に書かれてあったエピソードがそのまま映像になっていました。50年近く忘れていた子供の頃の記憶がフラッシュバックの様に蘇ってきます。三菱の名古屋工場で試作された当時最新鋭の飛行機を、牛に曳かせて各務原の飛行場まで運んだ話しは、なんとも当時の日本の工業力の薄さを象徴する話しで、堀越二郎自身も嘲笑的な逸話として直筆で書かれています。
で、この最新鋭の試作機は、実はゼロ戦ではありません。ゼロ戦以前に心血を注ぎ込んで設計した96艦戦(9試艦戦)と云う戦闘機です。「零戦」と云う本にもあまりゼロ戦は登場せず96艦戦の設計秘話ばかりが登場します。96艦戦の設計に如何に情熱を注ぎ込んだか、それ以前に設計した7試艦戦の挫折から起死回生に挑んだ闘志が本の随所に現れています。
ゼロ戦が有名過ぎて、96艦戦の知名度は高くありませんが、この両方の飛行機に搭乗したパイロット、坂井三郎に云わせると、乗り心地は96艦戦の方が良かったそうです。馬力数や後続距離と言った性能ではゼロ戦に遠く及びませんが、フォルムを比較しても96艦戦の方が愛着が沸き親しみが持てます。
ゼロ戦に贅肉を削ぎ落とした機能美があるのと対照的な美しさです。機能美の反対語はありませんが、あえて云えば装飾美とでも云うべき美しさが96艦戦にはあります。
映画の中で気になったのが、96艦戦の主脚の位置。実機より幾分胴体の方に寄りすぎています。96艦戦は逆ガルウィングと云う、主翼をカモメの翼と逆の方向に折り曲げた様なカタチをしています。その下向きに曲げた底辺の位置に主脚を取り付ける事によって、主脚を短くする事が出来て着艦時の事故率を下げているのです。この逆ガルウィングは良い面ばかりではありません。翼を折り曲げたが故に翼面を流れる層流に乱流が発生してスピードを出しすぎると空中分解の原因にもなります。あえて逆ガルウィングを選択した理由はただ一つ着艦性能の向上です。しかし、映画ではその位置が胴体に寄りすぎているのです。
少し理屈を知っている人であれば、その不自然さにツッコミを入れたくなると思うのですが、私はこう考えます。
当然宮崎駿も飛行機少年で、当時の96艦戦の写真を何枚も見ているはずです。この様な指摘を受けるまでもなく、それは解っていてあえて胴体側に寄せたのだろうと推測しています。理由はその方がカッコイイからです。機能的にみて無駄な事をする。それが装飾美だと考えます。これは建築にも通用する事です。
昭和40年代、建築家丹下健三が機能主義を唱えて、「機能的なものこそ美しい」と主張しましたが、数年で様式美が復権しています(建築では装飾美とは言わず様式美と云う言葉を使います)機能だけでもダメで装飾だけでもいけない。そのバランスの上に建築の美しさが成り立っているのだと考えます。