食博の歩き方
平清盛ほど、戦前と戦後で評価の分かれる人もいない。戦前は天皇を蔑ろにした、大悪人の様に教えられていた為か、戦前教育を受けた人から平清盛を良く云う人は少ない。
戦後教育を受けた人は貴族社会から中世武家社会への扉を開いた改革者として、好意的に見る人が多い。平治の乱で圧倒的勝者となった時でも、敵を根絶やしにしない大らかさと云うか、詰めの甘さと云うか人間的魅力も大いにある。
そんな清盛をもう少し知りたくて、昨日京都を歩きました。
初めに訪れたのが六波羅蜜時
六波羅は当時平家の居館が立ち並ぶ、平家一門の本拠地でした。往事は500を越える館が立ち並んでいたとか。その中心にあったのがこの六波羅蜜寺。空也上人の開山で清盛の時代の少し前に建立されています。今の建物は鎌倉時代に再建されたものが数々の改修工事を経ながら残っています。
平安時代は今から1000年以上前になりますので、空襲に遭っていない京都でも平等院以外、殆ど残っていません。仏像や宝物・書物等は平安時代のものでも数多く残っていますが、建物に限っては残そうとする人が1000年以上継続していないと残ってはくれません。
また建物を焼くと云う行為は、戦さの勝敗を決める大きなイベントですから、余計に残らない運命にあるのかもしれません。
この六波羅蜜寺も平氏が都落ちした際に燃えています。源氏が朝廷を監視するため設けた六波羅探題の造営の前後に再興したものかと思われます。
六波羅は賀茂川の東側にあります。当時の町並みから見れば洛外。つまり場末です。当時の武士の身分を象徴するように、いくら平氏と云えども洛内に居を構えることは出来なかったのでしょう。
洛外にあるといえば、もう一つ白川院があります。白川上皇の別邸です。
平清盛が白川上皇の落胤である可能性があることは、今回の大河ドラマで始めて知りました。
同じ賀茂川の東にあっても、南北に数キロ離れるだけですが、周囲の雰囲気がガラリと変ります。当時からそうだったのか、近世になってからそうなったのか想像するしかありませんが、保元の乱の舞台となる白川院周辺は公的な建物が今でも立ち並びます。
勿論当時の建物は一切残っていません。「この付近白川院跡」と記した石柱が立つのみです。