やられたら、やり返す。倍返しだ!
昨日、「1号機、冠水作戦窮地…4千t以上の水消えた」という見出しが「YAHOO!ニュース」のトップに載っていました。
一昨日の夜のTVニュースに於いても、繰り返し東電の記者会見の様子が映し出されていました。
「東京電力福島第一原子力発電所の事故収束に向け、最も復旧作業が進んでいた1号機で、大量の燃料が溶融し、圧力容器の底部にたまる『炉心溶融(メルトダウン)』が判明するなど工程表の見直しを迫るトラブルが相次いでいる。」
「事故から2か月経過した今になって、こうした想定外のトラブルが発覚したのはなぜか。背景を追った。」などの記事も躍っています。
一部の専門家から、「炉心溶融(メルトダウン)」が起きているのは間違いない」との指摘や東電の隠蔽体質に対する不安が当初から上がっていたものの、東電側は一貫して、「燃料の一部は溶融したが、メルトダウンはしていない」としてきました。
ところが驚いたことに今回は、「(全炉心溶融は)想定しなかった。認識が甘かった」と言っているのです。(ここでも、炉心溶融ではなく、前から一部は溶融と言っていた手前、全炉心溶融という表現で、メルトダウンに対する釈明を披露しています)
そもそも、この原発事故そのものが、「事故を起こした当事者」である東電の危機に対する想定が甘かったため、「想定された危機への対処」がまったく機能せずに発生した「人災」の面が大きいというのに、現実に起こった事実を後追いで容認せざるを得なくなると、「想定外だったので・・・」とまるで「自然災害」であったかのような発言を繰り返しています。
東電側には、「客観的な事実やデータに基づく可能性や予測」を受け入れて事態を予防し、収拾する姿勢が無いのでは?と指弾されても仕方がないような「現実」が進行しています。
東電側の見通しが決定的に甘かったという事実は、過去のデータや可能性を過小評価したことによる「想定外」の津波の被害と、米原子力規制委員会(NRC)が30年前に想定していた、「原発の全電源喪失」における安全規制の活用に対して、日本の原子力安全委員会が1990年に決定した「原発の安全設計審査指針」を受け、「長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない」として、全電源が失われるという想定自体、軽視してきた経緯からも明らかです。
ところが、今回起こった東京電力福島第一原子力発電所の事故は、まさにほぼ、米原子力規制委員会(NRC)が「原発の全電源喪失」としてシミュレーション(1981~1982年にかけて予測)した「想定通り」に起きているのです。
米国では想定されていたシミュレーションが、地震や津波による過去の被害やデータで「原発の全電源喪失」の可能性が想定できたはずの福島では「考慮する必要なし」と人為的に決めておいて、現実に事故が起きると「想定外でした」なんて、あまりにもご都合主義的ではないでしょうか?
こうした過去の経緯からしても、事故初期の段階で必要だったのは、外部(外国)の専門家を交えて、当事者(東電や原子力安全委員会や原子力安全保安院)が想定した枠内の可能性や現状分析を否定的に検証し、改めて想定外の事態や最悪の事態、可能性を「再想定」した万全の予防収拾計画を再構築することにあったのです。
しかし記者会見では、この期に及んでもなお、「炉心溶融(メルトダウン)」という言葉を口にすることを意図的に避け、記者に確認を求められて渋々、消極的に認めるという東電側の恣意的な体質を曝け出す場面も見せてくれました。
また同時に、「東京電力の福島第一原子力発電所で14日午前6時50分頃、機材の搬送をしていた東電の協力企業の60歳代の男性社員が意識不明となり、福島県いわき市内の病院に運ばれたが、午前9時33分に死亡した。」というニュースも飛び込んできました。
「想定外」の事故処理に従事する「協力企業」(協力企業って、何か責任が曖昧な関係に聞こえるのですが・・・)の作業員の置かれた「想定外の過酷な労働環境」に対する危機管理(想定外の想定)も問われています。
今回の「東京電力福島第一原子力発電所の事故」や最近の「焼肉チェーン集団食中毒事件」、「栃木県鹿沼市で発生したクレーン車暴走死亡事故」等は、「企業や社員が持つ会社保身」、「官僚や役人が持つ組織保身」、「政治家が持つ身内保身」、ひいては、「人間が持つ自己保身」というものが繰り返す社会的悲劇を、私達自身に深く問いかけているような気がします。
「保身」によって都合の悪い現実を直視できない、「保身」によって都合の悪い予測や可能性に言及することが出来ない人や組織に、私達の将来や安全を任せてはいけません・・・。
「足と靴の相談室」ロビンフット長津田 http://www.robinfoot.co.jp/