日本の銘石 東日本版
昨日に続いての家内のおばあちゃんの葬儀の話。
石屋さんをやっていて時々ある光景なのですが。
四十九日に結構身内で欠席されている方がいる
それはお孫さんであることがおおい
理由は部活やクラブスポーツを優先しているから。
スポーツをしっかりやって学ぶことも大事です
連帯感も大切だし。
でも身内の大切なお別れに、しっかり向き合わない方向にすることは
スポーツマンシップ以前の問題
いま、高齢化が進み、また家族の規模が小さくなり、身内の死にすら遭遇することがない中で
たった1回しかできないお別れを、放棄するのが良いことかどうか?
うちの子も部活は私用では全く休まない子です。
で、やはり休むことに抵抗はしますが
今回のひいばあちゃんとのお別れは本人の感情にとってとてもよかったとおもいます。
自分との関わりを一つ一つひも解いて感謝で見送る。
当たり前のことですが最近はそれが見えないことが多いのです。
こどもに死を見せるべきではないという方もたまにいますが、あなたが亡くなったとき
かぞく、それも子や孫が来てくれなくてもよいですか?
人の死に触れることは、神道的な考えでは「穢れ」となるのですが
「穢れ」は「気が枯れる」というこにつながるそうです。
「穢れ」に向き合わないことこそ「気が枯れる」のかもしれないなとおもうのです。
亡くなってから、生きている者は悲しみ「気が枯れる」のも正しいかもしれませんが、
人が死ぬのは当たり前のこと
だからこそ向き合い、悲しみも受け止め前に進んできたから今があるのに
それをさせないことは、最初にも述べましたがスポーツマンシップ以前の問題だと思うのです。
悲しみながらも感謝を話し、その体に触れお別れをする。
人として当たり前のこと
こどもたちの姿をみていてほっとしました。
ひいばあちゃん譲りの優しい子たちにそだっていくでしょう。