天地の呼吸3
ふいにある朝の光景が浮かびました。
母がいて、父がいて、わたしは小学生でした。
これはきっと、昨日の娘との会話が、引き寄せた記憶。
唐突に、このからだは意識の容れものだと腑におちました。
これまでよりも、一番深く。
《 神は言われた「光あれ。」 》
・・・と、この世界に意識が芽生えました。
そして各々の、生まれてきたときに目覚めた「わたしという意識」が
それぞれの「わたしのからだ」の中で、ずっと続いているのです。
それは朝ごとに、今日一日分の約束として目覚めます。
朝日が正午を目指す、肉体の成長期、上昇期には気付きにくい、
そのからだは意識の容れものという感覚は、
人生の午後になり、夕刻が迫ってくる頃になると
肉体の経年劣化とあいまって、気付き易くなるのかもしれません。
「わたしという意識」は体験を積み重ね、記憶を増し
「わたしのからだ」は、時間の中で、変化していきます。
時間の経過の中で、「わたしという意識」は変わらなくても
「からだ」に相応の呼ばれ方や、扱われ方になっていきます。
時に、それは自意識との隔たりによって、軋轢を生むこともあります。
電車で席を譲ってもらって、ちょっとショックをうけたり・・・。
かつて似合っていた服装や髪型が、似合わなくなってきていることは
気付き易いかもしれません。
わたしという太陽は、いま、どのあたりにいるのだろう。
あなたは、どのあたりにいますか?
「肉体という宝物。(2017-06-29 )」
http://mbp-japan.com/hyogo/yu-cocoro/column/61639/
『ライフサイクル(ユングから)2010-08-23』
http://mbp-japan.com/hyogo/yu-cocoro/column/12450
参考:聖書(新共同訳)創世記 一章第三節



