福岡の偉人:久留米市 信念を貫き、時代に散った真木和泉

鎌田千穂

鎌田千穂

テーマ:この世界、知らんことだらけ

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さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはいけない人がいます。

自分が信じるものがある。
その信念を、最後まで貫く。
それは、とても強い生き方。

けれど、その信念が強くなりすぎたとき、
人は何を見失うのでしょうか。

今回は、
久留米市が生んだ幕末の志士、
真木和泉(まき いずみ/1813年~1864年)のお話です。

水天宮の神官だった青年

真木和泉は、1813年、久留米に生まれました。
本名は保臣(やすおみ)。

久留米・水天宮の神官の家に生まれ、やがて自身も神官となります。
しかし、真木和泉は神職だけを務める人物ではありませんでした。

江戸や水戸に遊学し、
水戸学を代表する学者・会沢正志斎らの影響を受けます。

そこで強く意識するようになったのが、
「日本はどうあるべきなのか」ということ。

外国船が日本近海に現れ、
幕府の統治にも揺らぎが見え始めていた時代。

真木和泉は、
天皇を中心とする政治を取り戻し、
外国勢力に対しては毅然とした態度を取るべきだと考えるようになります。

いわゆる、
尊王攘夷(そんのうじょうい)の思想です。

この考え方は、
天皇を尊び外敵を斥けようとする思想。
江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受けています。

まず、故郷の久留米を変えようとした

真木和泉の特徴は、
ただ理想を語っていたわけではないところです。

久留米藩に戻った真木和泉は、
藩そのものを改革しようと動きます。

藩政を立て直し、
国力を強くする。

そのためには、政治を変えなければならない。
そう考えたようです。
ですが、改革は簡単には進みませんでした。

藩内の対立にも巻き込まれ、
1852年には藩政改革の動きに失敗。

真木和泉は処分され、
長い蟄居生活を送ることになります。

普通なら、
ここで一度立ち止まるもの。
けれど、真木和泉は違いました。

蟄居の間にも思想を深め、
討幕や王政復古について考え続けます。

政治の表舞台から姿を消しても、
その信念まで消えることはありませんでした。

「国を変える」という思いが、行動へ変わる

1862年。
幕末の政治情勢が大きく動き始めると、
真木和泉は脱藩して京都へ向かいます。

そして、尊王攘夷派の志士たちとともに、
討幕を目指す動きを強めていきます。

しかし、ここで大きな転機が訪れます。
寺田屋事件です。

薩摩藩内でも尊王攘夷を掲げて挙兵しようとする動きが起こり、
真木和泉もその動きと関わります。

ところが、薩摩藩はこれを鎮圧。

真木和泉も捕らえられ、
再び久留米藩に幽閉されることになります。

それでも、
真木和泉は諦めませんでした。

翌1863年、許されて再び京都へ。
尊王攘夷派の中心人物の一人として活動。
朝廷にも意見を届けるようになります。

しかし、時代はさらに激しく動いていました。

ちなみに、「寺田屋事件」と聞くと、
坂本龍馬を思い浮かべる方も多いかもしれません。

ですが、
真木和泉が関わった寺田屋事件は、
それより4年前の1862年に起きた別の事件です。

京都から追われ、長州へ

1863年8月18日。
京都で大きな政変が起こります。

会津藩や薩摩藩など、
公武合体を支持する勢力が主導権を握り、
長州藩や尊王攘夷派は京都から追われました。

真木和泉も京都を離れ、
七卿とともに長州へ向かいます。

ここから真木和泉の人生は、
さらに後戻りできない方向へ進んでいきます。

最後の舞台、禁門の変

1864年。
長州藩は京都での失地回復を目指し、
再び兵を率いて上洛します。

その中には、
久坂玄瑞、来島又兵衛、そして真木和泉らがいました。

7月19日。
京都御所周辺で、
長州勢と会津・薩摩などの諸藩兵が衝突。

ここで真木和泉と対峙したのが、
会津藩や薩摩藩の兵たちでした。

この時代には、のちに明治維新を動かす
西郷隆盛のいる薩摩藩も、この戦いに加わっています。

これが、
禁門の変(蛤御門の変)

長州勢は一時、御所に迫りました。
しかし、最終的には敗北。

京都の町にも大きな被害が出る戦いとなりました。
そして、真木和泉は天王山へ向かいます。

そこで同志16人とともに自刃。
52歳の生涯を終えました。

信念を貫いた人

真木和泉の人生を振り返ると、
一つのことが見えてきます。

それは、
「自分が正しいと思ったことを、
最後まで諦めなかった」


ということです。

藩政改革に失敗しても。
幽閉されても。
寺田屋事件で挫折しても。
京都から追われても。

それでも、自分が信じる政治の実現を目指しました。

その生き方は、確かに強い。
けれど、「だから真木和泉は偉かった」と終わらせるのは、少し違う気がします。

なぜなら、
信念を貫くことと、
その信念が正しいことは、
同じではないからです。

信念は、人を強くする

私たちの生活でも、
「こうしたほうがいい」と思うことはあります。

仕事でも。
人間関係でも。
組織の中でも。

自分なりの正しさを持つことは、
決して悪いことではありません。

むしろ、
何も考えずに周囲に合わせるより、
ずっと大切なことかもしれません。

ただし、
自分の信念が強くなるほど、
相手の考えを受け入れにくくなる。


そんな一面もある。

真木和泉が生きた幕末は、
まさにそんな時代でした。

「日本を変えなければならない」

その思いは、
やがて政治的な対立となり、
最後には戦いへとつながっていきました。

真木和泉が残したもの

真木和泉は、
明治維新を見ることなく亡くなりました。

その約4年後、
1868年に明治維新が起こります。

結果だけを見れば、
真木和泉が目指した「討幕」や「王政復古」は、
後の時代に実現していくことになります。

しかし、
それは真木和泉一人の功績ではありません。

多くの人が、それぞれの立場から時代を動かし、
そして多くの人が、その過程で命を落としました。

真木和泉も、
その激動の中にいた一人。

久留米の水天宮の神官から、
幕末の尊王攘夷派の志士へ。

そして最後は、
天王山で自ら命を絶つ。

その人生は、
あまりにも激しいものでした。

編集後記

真木和泉の人生を調べていて、
考えさせられたことがあります。

それは、

「信念を持つこと」と「正しいこと」は別。

ということです。

私たちは、自分の考えを持っています。

仕事はこうあるべき。
会社はこうあるべき。
上司はこうするべき。
社会はこう変わるべき。

そう思うこと自体は、
悪いことではありません。

むしろ、自分の人生を生きるためには、
必要なことだと思います。

でも、

「自分は正しい」

と思った瞬間から、
相手の話を聞けなくなることがあります。

SNSを見ていても、
政治の話をしていても、
職場の人間関係でも、
そんな場面を見かけることがあります。

自分と違う意見を持つ人を、
「間違っている人」と決めつけてしまう。

そして、
相手を変えようとする。

真木和泉の時代には、
それが最後には武力による衝突にまで発展しました。

もちろん、
現代と幕末を単純に同じにはできません。

それでも、
「自分は正しい」と思ったときこそ、
その考えを疑ってみる。


これは、今を生きる私たちにも必要なことなのかもしれません。

信念は、
人を前に進ませてくれます。

ですが、
「もしかしたら、自分にも見えていないものがあるかもしれない」
そう考える。

それが、
信念を持ちながら、
人を傷つけずに生きるための知恵なのかもしれません。

真木和泉は、
信念を曲げずに生きました。

だからこそ、
その生き方から私たちが学べることも、
そして考えさせられることも、
たくさんあるのだと思います。

久留米から時代を変えようとした真木和泉。

その名前を、
今週は少しだけ覚えておきたいと思います。

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組織課題を広い視野で捉え、主体性を持った思考と行動力、公私の均衡を図る自律型人材育成を行うこと。分析・統計による業務改善の解決策を示し、個人の悩みを解き放ち、企業の繁栄に繋げることが専門です。

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