【カスハラ対策】対応記録を従業員に書かせる|労務管理とプライバシーの線
隣の家から、生活音について週に何度も申し入れを受けている。マンションの下の階から、毎晩のように苦情の電話が入る。回数が重なるうちに、要求の中身も「静かにしてほしい」から「防音工事をしてほしい」「引っ越してほしい」へと広がっていく。ご近所をめぐるご相談では、こうした経過をたどるものが少なくありません。
やりとりが難しくなるのは、相手の言い分に理由がある部分と、そうでない部分が同じ言葉の中に混ざっているからです。まったくの言いがかりなら断れば足りますし、こちらに直すべき点があるなら直せば済みます。ところが実際には、その両方が一続きの要求として届きます。
このときの手がかりになるのが「受忍限度」という考え方です。近隣トラブルを扱う記事の多くは、苦情を言う側から見た受忍限度を説明しています。この記事では向きを変えて、苦情や要求を受けている側から、この物差しをどう使うかを整理します。
この記事で扱うこと・扱わないこと
- 扱うこと=苦情や要求を受けている側から見た受忍限度の使い方と、応じる範囲の切り分け方です。
- 扱うこと=音や臭いの基準値の読み方と、記録として残しておく項目です。
- 扱うこと=求め方が度を超えた場合に、こちらの側から検討できる手段の輪郭です。
- 扱わないこと=相手の被害を立証して慰謝料を請求する側の進め方です。
- 扱わないこと=賃貸借契約や管理規約に基づく個別の請求手続の詳細です。
受忍限度とは何を測る物差しなのか
人が集まって暮らしている以上、生活の中で音や臭いがまったく出ないということはありません。少しでも不快なら違法だとすると、誰も普通の生活を送れなくなります。そこで裁判所は、ある行為が違法といえるかどうかを、社会生活を営むうえで我慢すべきとされる限度を超えたかどうかで判断してきました。これが受忍限度と呼ばれる考え方です。
「不快である」と「違法である」は別の話
相手が不快に感じていること自体は、事実として受け止めてよいものです。ただ、不快だという申し出があったことと、こちらに法的な責任が生じていることは、同じではありません。受忍限度は、この二つの間に線を引くための道具です。
逆にいえば、こちらが「その程度は普通の生活音だ」と考えていても、それだけで話が終わるわけでもありません。判断は感覚ではなく、後で述べる要素を並べたうえで行われます。
物差しは相手の行為にも当てられる
見落とされやすいのですが、受忍限度は苦情を言う側の被害だけを測るものではありません。苦情を伝える行為そのものにも、社会生活上許される範囲があります。伝え方や回数、時間帯が度を超えていれば、今度は要求する側の行為が違法と評価されることがあります。
つまり同じ物差しが、相手の被害と相手の求め方の両方に当てられます。この記事の後半は、その二つを分けて考える方法にあてています。
裁判所が並べている5つの要素
公害をめぐる事件で、最高裁判所は受忍限度の判断に必要な要素を整理しています(最高裁判所平成7年7月7日判決)。道路の騒音が問題になった事案ですが、そこで示された枠組みは、隣人同士の生活妨害を考えるときにも参照されています。
- 侵害行為の態様と、侵害の程度。
- 被害を受けたとされる利益の性質と内容。
- その行為が持つ公共性や公益上の必要性の内容と程度。
- 行為がいつ始まり、その後どう続いてきたかという経過と状況。
- その間にとられた被害防止の措置の有無と、内容や効果。
注目していただきたいのは、4番目と5番目です。いつから始まり、申し入れを受けてから何をしたかが、独立した考慮要素として並んでいます。言い換えると、指摘を受けた後の対応の履歴は、後で判断される材料になります。何もしていない期間が長いほど説明は難しくなり、できる範囲で手当てをした事実があれば、その事実自体が評価の対象になります。
なお同じ判決は、行為をやめさせる差止めを認めるかどうかの判断では、金銭賠償の場合と共通する要素を考えつつ、差止めによって相手方や周囲が受ける影響も踏まえた検討が必要だという趣旨を示しています。「やめさせる」ところまで求めるほうが、ハードルは高くなると理解しておくとよいでしょう。
デシベルの数字をどう読むか
「基準値を超えている」と数字を示されることがあります。ここは誤解が生じやすいところなので、性質の違う3種類の数字を分けて見ていきます。
環境基準は行政の目標値
環境基本法16条1項に基づく騒音の環境基準は、維持されることが望ましい水準として定められた行政上の政策目標です。東京都環境局も、工場などに適用される規制基準とは異なるものであり、環境基準によって騒音の発生が規制されることはない、と説明しています。近隣の話し合いの場でこの数字を突きつけられても、それは直ちに私人間の違法性を決める基準ではありません。
条例の規制基準は「隣地との境界線」で測る
東京都では、環境確保条例136条・別表13が日常生活等の騒音について規制基準を定めています。たとえば第1種低層住居専用地域では、昼間(8時から19時まで)が45デシベル、夜間(23時から翌6時まで)が40デシベルといった値です。
ここで重要なのは、測る場所が音源のある敷地と隣地との境界線だと定められている点です。相手の部屋の中で測った数値や、こちらの居室で感じる大きさが、そのまま基準と比べられるわけではありません。
さらにこの基準値には適用されない場面があります。都の説明では、集合住宅など同一の建物内部における各住戸間の騒音・振動には適用されないとされています。マンションの上下階や隣室の物音は、この規制基準の当てはめとは別の枠組みで考えることになります。保育所や幼稚園などで子どもや保育者が発する声・動作に伴う音についても、この基準は適用しないとされています。
測り方にも決まりがある
条例は測定方法も定めており、計量法71条の条件に合格した騒音計を用い、日本産業規格Z8731の方法で測ることとされています。スマートフォンのアプリで表示された数値は、生活の様子を記録する参考にはなりますが、条例が予定している測定とは前提が違います。相手が示す数値も、自分が測った数値も、この点は同じです。
求められている中身を分ける
要求は一つの塊で届きますが、中身は性質の違うものの集まりです。まず分解してから、それぞれについて考え方を決めます。
| 求められている内容 | 考え方の出発点 | やりとりの持ち方 |
|---|---|---|
| 音や臭いを出さないでほしい | 受忍限度を超えるかどうかの判断が入る。超えなくても、できる工夫はありうる | 事実の確認と、できることの範囲を分けて伝える |
| 防音工事や設備の交換をしてほしい | 費用の負担を伴う要求。責任の有無と切り離せない | その場で約束せず、内容と根拠を書面で示してもらう |
| 慰謝料や迷惑料を払ってほしい | 受忍限度を超える侵害と、それによる損害が前提になる | 金額の根拠と算定の内訳を確認する |
| 謝罪文を書いてほしい | 事実を認める書面としての意味を持つことがある | 文面が独り歩きしうる点を踏まえて慎重に扱う |
| 引っ越してほしい | 求める側に法的な根拠を見いだしにくい類型 | 応じられない旨を、理由とともに一度で伝える |
この表で伝えたいのは、応じる・応じないの二択ではないということです。責任の有無とは別に、生活の工夫として今日からできることはあります。責任を認めたわけではないと明示したうえで、できる範囲の対応を先に行っておくことは、5つの要素の4番目・5番目に関わる事情としても意味を持ちます。
中身と「求め方」は別に評価される
こちらに直すべき点があったとしても、相手の求め方まで正当化されるわけではありません。中身の当否と、伝え方の当否は、別々に評価されます。
民事で問題になりうる場合
深夜の訪問や長時間の呼び出しが繰り返される、同じ内容の電話が一日に何度も続く、といった状態が長く続けば、平穏に生活する利益が侵害されているとして、慰謝料の請求や、行為をやめるよう求める仮処分の検討対象になることがあります。仮処分では、人格権に基づく妨害排除・妨害予防の請求権を根拠として、面談の強要や架電を禁止する形が用いられています(民事保全法13条1項)。
権利の行使であっても、その方法や程度が社会通念上相当な範囲を超えれば、権利の濫用として保護されないという考え方(民法1条3項)も、判断の背景にあります。
刑事で問題になりうる場合
求め方によっては、刑事の条文に触れることもあります。害を加える旨を告げれば脅迫(刑法222条)、義務のないことを無理にさせようとすれば強要(同223条)、敷地や共用部分に立ち入って求めに応じて退去しなければ住居侵入・不退去(同130条)、事実を摘示して社会的評価を下げれば名誉毀損(同230条)といった規定が関わります。掲示物や貼り紙で名指しをする行為も、この点で問題になり得ます。
ただし、条文に当てはまりそうだからといって、すぐに刑事事件として扱われるとは限りません。近隣の問題は民事の色合いが濃く、警察が動きにくい場面もあります。刑事の枠組みは、あくまで手元のカードの一つとして把握しておくものです。
記録は何を残すか
近隣の事案では、後から状況を再現できるかどうかが分かれ目になります。記録の様式そのものは別の記事で扱っていますので、ここでは近隣特有の項目に絞ります。
- 日時と所要時間。何時何分に始まり、どれくらい続いたか。
- どこで起きたか。玄関先、共用廊下、駐車場など場所の別。
- やりとりの中身。言われた内容と、こちらが答えた内容の両方。
- 第三者の有無。管理人、家族、通行人など、その場にいた人。
- こちらがとった対応。時間帯を改めた、緩衝材を敷いたなど、実際に行ったこと。
最後の項目は忘れられがちですが、先ほどの5つの要素に直結します。いつ何をしたかを日付とともに残しておくと、後から「申し入れを受けた後、何もしていなかった」という前提で話が進むことを避けられます。
窓口をどう使い分けるか
当事者同士だけで続けると、話が感情のやりとりに寄っていきます。間に入る先を用意しておくと、負担の分散になります。
| 窓口 | 向いている場面 | 副次的に得られるもの |
|---|---|---|
| 管理会社・管理組合 | 集合住宅で、規約や共用部分が関わるとき | 第三者が経過を把握している状態になる |
| 自治体の公害・環境の相談窓口 | 音や臭いの程度そのものが争点になっているとき | 測定や指導の枠組みがあるかを確認できる |
| 警察相談専用電話(#9110) | 訪問や連絡の態様に不安があるとき | 相談した事実と日時が記録に残る |
| 弁護士 | 要求が金銭や書面に及んでいるとき | 窓口を代理人に移す選択肢が生まれる |
「相手が第三者に持ち込むと言っている」ことを、過度に恐れる必要はありません。第三者が入ると、それまでのやりとりが記録として残ります。事実に照らして説明できる状態を保っておくことのほうが、結果として身を守ります。
避けたい進め方
- その場で金額や工事の約束をしてしまうこと。内容を持ち帰る扱いは別の記事で詳しく扱っています。
- 求められるまま謝罪文に署名すること。事実を認めた書面として扱われることがあります。
- 連絡をすべて断ち、記録も残さないまま時間が過ぎること。経過そのものが判断材料になります。
- 掲示物やSNSで相手を名指しすること。こちら側の行為が問題として持ち上がります。
- 相手の言い分の一部が正しいことを認めたくないあまり、事実確認を後回しにすること。
よくあるご質問
まず謝ったほうがよいのでしょうか
不快な思いをさせたことへの言葉と、法的な責任を認める言葉は、分けて考えられます。「ご不快な思いをさせて申し訳ありません」と伝えることと、「当方の騒音により損害を与えました」と認めることは、意味が違います。事実関係が確認できていない段階では、確認したうえで回答する旨を伝える形にとどめる方法があります。
相手が録音や撮影をしています
相手が記録を残していること自体は、こちらにとって不利とは限りません。事実に沿った受け答えをしていれば、その記録は経過を示す資料にもなります。こちらも同様に記録を残しておくことで、断片だけが切り取られる事態を避けやすくなります。録音の告知や扱いについては、別の記事で整理しています。
「訴える」「役所に言う」と言われました
裁判を起こすことも、行政の窓口に相談することも、相手の権利の範囲内です。それ自体を止めることはできませんし、止める必要もありません。問題になるのは、それを材料に義務のない行為を求める場合です。伝えられた内容と日時を記録し、実際に手続が始まったときに備えておく対応が現実的です。
まとめ
- 受忍限度は、不快かどうかではなく、社会生活上我慢すべき限度を超えたかどうかを測る枠組みです。
- 判断では、行為の態様と程度、侵害された利益、公共性、経過、防止措置の有無という要素が総合的に見られます。
- 指摘を受けた後にとった対応の履歴は、独立した考慮要素として扱われます。
- 環境基準は行政上の目標値であり、条例の規制基準は隣地との境界線で測るもので、集合住宅の住戸間には適用されません。
- 要求は中身ごとに分け、責任の有無と、生活上の工夫として今できることを切り離して考えます。
- 中身の当否と、求め方の当否は別に評価され、求め方が度を超えれば相手の行為が問われる場面もあります。
- 記録には、日時・場所・やりとり・第三者の有無に加えて、こちらがとった対応を残します。
- 当事者同士で抱え込まず、管理会社、自治体、警察相談専用電話、弁護士といった窓口を使い分けます。
ご相談について
近隣の問題は、法的な責任の有無だけでは割り切れず、これからも同じ場所で生活が続くという事情を抱えています。だからこそ、どこまでが応じるべき内容で、どこからが応じる必要のない要求なのかを、早い段階で切り分けておくことに意味があります。
弁護士法人若井綜合法律事務所では、近隣住民との間で生じたトラブルや、不当な要求への対応についてご相談をお受けしています。すでに書面が届いている場合はもちろん、まだ口頭のやりとりが続いている段階でも、記録の残し方や返答の組み立てからお手伝いできます。お一人で抱え込まず、経過を整理する段階からご相談ください。


