【不貞慰謝料】相手に資力がない場合|請求する側にできること
いったん示談書に署名したものの、あの内容でよかったのかと後から考え始める方は少なくありません。強く迫られてその場で署名した、後になって聞いていた話と違う事情が出てきた、支払いを始めてから金額の重さが分かってきた。きっかけはさまざまです。
調べてみると「示談は原則としてやり直せない」という説明が並びます。大枠としてはそのとおりですが、この一文だけでは、自分の場合に何ができて何ができないのかまでは分かりません。日常語の「撤回」の中には、法律上は別々の道筋がいくつも混ざっているからです。
この記事では、不貞慰謝料の示談を念頭に、撤回・やり直しを考えるときに整理しておきたい点を順に説明します。慰謝料を請求した側・請求を受けた側のどちらの立場からも読めるようにしています。
この記事で扱うこと・扱わないこと
撤回・やり直しは、示談をめぐる論点の中でも後ろの段階にあたります。前後の話題は別の記事に譲り、ここでは合意が成立した後の選択肢に絞ります。
- 扱うのは、成立した示談を撤回・やり直しできるかという問いと、その主張の進め方です。
- 署名を求められた段階での確認手順や、示談書に入れる条項の設計は扱いません。
- 清算条項がどこまで及ぶかという射程の問題も、別の記事に譲ります。
- 支払った後の領収書や記録の残し方も扱いません。
- 未成年者や判断能力に不安のある方が当事者の場合は、別の枠組みになります。
「撤回したい」という言葉が指しているものを分ける
「撤回したい」という言い方は、法律上の一つの制度に対応しているわけではありません。何を望んでいるのかによって、通る道も、必要な材料も、かかる時間も変わります。まずは自分の希望がどれに近いかを見当づけるところから始まります。
| 望んでいること | 法律上はどの道筋になるか | 相手の同意 |
|---|---|---|
| まだ署名していないので取りやめたい | 申込みの撤回・承諾をしない | いらない |
| 判断の前提が違っていた | 取消しを主張する | いらない(争いになれば裁判所が判断) |
| 内容そのものが許されない | 無効を主張する | いらない(争いになれば裁判所が判断) |
| 相手が約束を守らない | 履行を求める・解除を検討する | いらない |
| 条件を変えたい・作り直したい | 合意して変更する | いる |
この表から見えてくるのは、相手の同意がいらない道は、その分だけ主張する側に重い説明が求められるということです。逆に、相手が応じてくれるのであれば、理由の当否を細かく問われることなく作り直すことができます。実務で選ばれているのは、後者であることも珍しくありません。
成立した合意を一方的になかったことにする道は限られている
示談は、当事者が互いに譲り合って争いをやめる合意であり、民法上の和解(民法695条)にあたると説明されます。契約である以上、一方の気持ちが変わったというだけでは効力は失われません。
和解には、後から蒸し返さないという効果がある
和解には、争いの目的となっていた事柄について、後から「本当は違っていた」と言い出せなくなる効果があります(民法696条)。示談は、証拠が足りるかどうか、金額としていくらが妥当か、といった不確かな部分を当事者の合意で確定させる仕組みだからです。争いを終わらせるための約束が、後から一方の言い分で開き直せるのでは、そもそも合意する意味がなくなってしまいます。
なお、示談書に「不貞行為があったことを認める」といった記載がある場合、その一文が持つ意味については別の記事で詳しく扱っています。
「相場より高かった」は理由になりにくい
署名した後で調べ、金額の一般的な幅を知って驚いたという相談は多く寄せられます。ただ、金額をいくらにするかは、まさに合意で確定させた部分です。後から相場を知ったという事情は、原則として合意を覆す理由にはなりにくいと考えられています。
同じことは請求した側にもあてはまります。示談の後で不貞の期間が想定より長かったと分かっても、それを理由に金額を上乗せできるとは限りません。撤回・やり直しの議論は、どちらか一方に有利な仕組みではないという点は押さえておきたいところです。
取消しや無効を主張できる場面
もっとも、例外がないわけではありません。合意そのものの成り立ちに問題がある場合には、取消しや無効を主張できることがあります。主な柱は次の4つです。
| 主張 | 想定される場面 | 主張する側が示すことになるもの |
|---|---|---|
| 強迫による取消し(民法96条1項) | 脅されて、こわいと感じたまま署名した | 相手の言動と、それによって畏怖したという経過 |
| 詐欺による取消し(民法96条1項) | 事実を偽られ、それを信じて署名した | 相手が事実と異なる説明をしたこと |
| 錯誤による取消し(民法95条1項) | 重要な前提を誤解したまま署名した | 誤解の内容と、それが重要なものであったこと |
| 公序良俗違反による無効(民法90条) | 合意の内容や成立の過程が社会的に許されない | 金額や条件、迫り方などの具体的な事情 |
錯誤には条文上の絞りがある
錯誤は「勘違い」と説明されますが、条文はかなり絞りをかけています。動機の部分についての誤解は、その事情が相手に示されて合意の内容になっていた場合に限られます(民法95条2項)。また、誤解したことについて重大な不注意があった場合は、原則として取消しを主張できません(民法95条3項)。
無効と取消しは別の制度
公序良俗違反は「無効」、強迫・詐欺・錯誤は「取消し」です。無効は初めから効力が生じていない状態を指すのに対し、取消しはいったん有効に成立したものを後から失効させる仕組みです。後で述べる期間の制限は、取消しの側にだけかかります。
同じ「強く迫られた」でも結論は分かれている
不貞慰謝料の合意について、強迫による取消しや公序良俗違反による無効が争われた裁判例は複数あり、結論は一つに揃っていません。判断を分けた事情として挙げられている点を並べると、次のような視点が浮かび上がります。
話し合いが行われた場所と、その場にいた人数
深夜に複数人で室内に立ち入られ、その場で書面を作るよう求められた事案では、不利益を受けるという恐怖を感じて応じたものと評価され、取消しが認められた例があります。他方、周囲に他の客や店員がいる飲食店で話し合われた事案では、自由な判断が妨げられる状況とはいえないとされた例があります。
その場で事実関係を争っていたかどうか
署名の時点で不貞の事実自体は争っておらず、金額や支払方法についてやり取りをしていた、という経過が認定されると、脅されたから応じたという説明とかみ合いにくくなります。裁判例でも、支払えないと述べ続けたうえで分割払いの条件を自分から口にしていた点が、畏怖して応じたとはいえない理由として挙げられています。
示された金額の水準
金額が一般的な水準から離れて高いというだけで、合意が当然に効力を失うわけではありません。ただ、迫り方に問題がある事案では、金額の高さが評価をさらに悪くする方向に働くことがあります。逆に、金額は高めでも分割払いになっていた事案では、負担の重さが一括払いとは異なるとして、無効とまではいえないとされた例があります。
署名した後にどう行動したか
署名の後で代理人を立てて交渉した際に、脅されたという事情を説明した形跡がなかったことが、後から強迫を主張することの妨げとして挙げられた例もあります。署名した直後からの言動が、後の主張の通りやすさに影響するという点は、実務上とても重要です。
「取り消します」と言えば取り消せるわけではない
理由がありそうだと分かっても、そこから先の進め方を知らないまま動くと、かえって不利になることがあります。
取消しは相手方への意思表示でする
取消しは、相手方に対する意思表示によって行います(民法123条)。裁判所に申し立てて認めてもらってから、という順序ではありません。もっとも、意思表示をした時点で決着がつくわけでもありません。
相手が争えば、判断するのは裁判所
相手が「そんな事実はない」と応じれば、その先は民事の手続で決めることになります。そして、強迫や錯誤があったことを示す責任は、取消しを主張する側にあります。当時のやり取りの記録、同席者の存在、署名前後に誰にどう相談していたかといった材料が、後から効いてきます。
通知を出した後に何が起きるか
取消しを伝えて支払いを止めれば、相手から支払いを求める請求や訴えが起こされることが考えられます。すでに払った分の返還を求めたい場合は、自分の側から手続を起こすことになります。いずれにしても、通知は静かな終わりではなく、次の局面の始まりだと考えておいたほうが実際に近いといえます。
時間の制限と、取消権を失う行為
ここは競合する情報がとても少ない部分ですが、実際にはここでつまずく方が多くいらっしゃいます。
いつまで主張できるのか
取消権は、追認をすることができる時から5年、行為の時から20年で消滅します(民法126条)。ここでいう「追認をすることができる時」は、取消しの原因となっていた状況が消滅し、かつ取消権を持っていることを知った後を指します(民法124条1項)。脅されている状態が続いている間は、その時点が来ていないと評価される余地があります。
支払いを続けると、追認とみなされることがある
見落とされやすいのが、こちらの制度です。追認ができるようになった後に、取消しの対象となる合意について債務の全部または一部を履行すると、追認したものとみなされます(民法125条1号)。つまり、おかしいと思いながら分割払いを続けている間に、取り消せる立場を手放していたという評価になり得るということです。
支払いだけではありません。同じ条文は、履行の請求、更改、担保の供与、権利の譲渡、強制執行も挙げています。慰謝料を受け取る側でも、合意に問題があると考えながら残金の支払いを求めれば、同じ問題が生じます。
やむを得ず支払うときの「異議をとどめる」
条文にはただし書があり、異議をとどめたときはこの限りでないとされています(民法125条ただし書)。合意の効力を争いながら、当面の関係悪化を避けるために支払わざるを得ない場面もあります。その場合には、合意の効力を争っている立場は変わらないという趣旨を書面で明らかにしたうえで支払う、という進め方が考えられます。口頭で伝えただけでは、後から確かめようがなくなります。
認められたとして、何がどこまで戻るのか
「取り消せるかどうか」に関心が集まりがちですが、その先まで見ておかないと、動いた結果が期待と食い違うことがあります。
取り消されると、初めから無かったものとして扱われる
取り消された行為は、初めから無効であったものとみなされます(民法121条)。示談書に書かれた金額の定めも、分割の約束も、清算条項も、まとめて効力を失うという整理になります。
受け取った側は返す義務を負う
無効な行為に基づいて給付を受けた者は、相手方を原状に復させる義務を負います(民法121条の2第1項)。すでに支払われた示談金は、原則として返還の対象になります。受け取る側から見れば、合意が覆るということは、手元に入ったお金を返す話にもなるということです。
戻るのは示談前の状態であって、支払義務のない状態ではない
ここが見落とされやすい点です。取消しや無効によって消えるのは示談という合意であって、その前提にあった不法行為に基づく慰謝料請求権そのものが消えるわけではありません。示談前の、何も決まっていなかった状態に巻き戻るだけです。
そこから先は、証拠のやり取りも、金額の交渉も、あらためて一からやり直しになります。すでに感情的な対立が深まっている状態から再出発することになりますし、消滅時効の残り時間も同時に問題になってきます。撤回が通ることと、支払いから解放されることは、同じではありません。
現実に選ばれることが多いのは、合意によるやり直し
ここまで見てきたとおり、一方的に覆す道は狭く、通っても得られるのは白紙の状態です。そのため実際には、相手と話し合って条件を変える、あるいは合意し直すという形で解決することが少なくありません。
相手が応じることがある場面
相手にも、応じる理由がある場合があります。決めた金額のままでは支払いが続かず、結局回収できないと見込まれるとき。効力を争われて手続が長引くくらいなら、条件を見直して落ち着いた形にしたいと考えるとき。書面に抜けがあり、そのままでは相手の側も困るとき。こうした場面では、話し合いの余地が生まれます。
作り直すときに決めておくこと
新しい書面を作る場合、元の示談書との関係をはっきりさせないまま進めると、どちらが生きているのかが分からなくなります。元の合意に代えるのか、一部だけを変更するのか、すでに支払われた分をどう扱うのかを、書面の中で整理しておく必要があります。具体的な条項の立て方は、示談書の作り方を扱った記事をご覧ください。
相手から撤回・やり直しを求められたとき
立場が逆になることもあります。示談が終わったと思っていたところに、相手方から「取り消す」「もう一度話し合いたい」という連絡が来る場面です。
- まず、何を理由としているのかを確認します。理由によって、こちらが用意する材料が変わります。
- 支払いを止められている場合は、督促を重ねる前に、相手の主張の中身を書面で出してもらうほうが後の見通しが立ちます。
- 署名時の経過を裏づける材料(やり取りの記録、同席者、日時と場所)を早めに整理しておきます。時間が経つほど集めにくくなります。
- 条件を見直すこと自体は不利益とは限りません。回収の見込みと、争いが長引くことの負担を比べて判断します。
裁判所の手続で成立した和解や調停は扱いが異なる
ここまでは、当事者だけで作った示談書を前提にしてきました。訴訟上の和解や調停で成立した合意は、確定判決と同じ効力を持つとされており(民事訴訟法267条)、争い方の道筋も別になります。差押えなどが問題になる場面では、さらに別の手続を検討することになりますので、裁判所の手続で終えた事案では早めに個別の相談をされることをおすすめします。
よくあるご質問
示談書の控えをもらっていません。それだけで効力がなくなりますか
控えを受け取っていないことは、合意の効力そのものを左右する事情ではないと考えられます。ただ、内容を確認できない状態が続くのは不利ですので、写しの交付を求めることから始めるのが現実的です。相手が代理人を立てている場合は、代理人あてに求めることになります。
支払いを止めれば、撤回したことになりますか
なりません。支払いを止めることは合意違反として扱われる可能性があり、遅延損害金の問題や、分割の場合は残額を一括で求められる事態にもつながります。争うのであれば、止める前に理由を明らかにしておくことが大切です。
示談の後で新しい事実が分かりました。追加で請求できますか
示談の対象に含まれていたと読める事柄については、原則として難しいと考えられます。もっとも、清算条項がどの範囲まで及んでいるかは書面の文言と合意の経緯によって変わりますので、別の記事もあわせてご確認ください。
弁護士に相談する意味
撤回・やり直しの相談で最初に必要なのは、「取り消せるかどうか」の見立てだけではありません。どの道筋を選ぶのか、いま支払いを続けてよいのか、通知を出したときに何が起きるのか、通ったとして自分にとって得なのか。これらを並べて比べる作業が要ります。
また、署名時の経過は、時間が経つほど確かめにくくなります。当時のやり取りが残っているか、誰に相談していたか、署名の前後にどんな連絡をしていたか。こうした材料は、早い段階で整理しておくほど後の主張を支えやすくなります。判断に迷う段階でご相談いただければ、選べる道と、それぞれの見通しを一緒に整理することができます。
まとめ
- 「撤回したい」という言葉には、撤回・取消し・無効・解除・合意による変更という別々の道筋が混ざっています。
- 成立した示談は和解にあたり、争いの対象だった事柄を後から蒸し返すことは原則として認められません。
- 例外として、強迫・詐欺・錯誤による取消しや、公序良俗違反による無効を主張できる場面があります。
- 不貞慰謝料の裁判例では、話し合いの場所と人数、その場で事実を争っていたか、金額の水準、署名後の行動などが判断を分けています。
- 取消しは相手方への意思表示で行いますが、相手が争えば裁判所の判断になり、示す責任は主張する側にあります。
- 取消権には期間の制限があり、支払いを続けることが追認とみなされる場合もあります。争いながら支払うのであれば、その旨を明らかにしておく必要があります。
- 取消しが通っても戻るのは示談前の状態であり、慰謝料の請求権そのものが消えるわけではありません。
- 実際には、相手と話し合って条件を変える、作り直すという形での解決が選ばれることも多くあります。
ご相談について
すでに署名してしまった書面について、どこまで争えるのか、いま何をしておくべきかは、経過によって答えが変わります。当事務所では、男女問題や不貞慰謝料に関するご相談を、請求する側・請求を受けた側のいずれからもお受けしています。
池袋・新橋のほか、お電話やオンラインでのご相談にも対応しております。示談書の内容にご不安がある方、相手方から撤回を求められている方も、状況の整理からお手伝いいたしますので、お気軽にお問い合わせください。


