【不貞慰謝料・請求された側】自分で交渉するか、弁護士に任せるか
「示談書の最後に、本件に関し、本示談書に定めるもののほか何らの債権債務がないことを相互に確認する、という一行が入っていました。これで終わりということでしょうか」。慰謝料を支払う側からも、受け取る側からも、同じご質問をいただきます。
清算条項は紛争の蒸し返しを防ぐための条項です、という説明は多くの解説にあります。それ自体が誤りというわけではありません。ただ、この説明だけでは、目の前の書面に署名したときに、自分の側の何がなくなって何が残るのかまでは見えてきません。効くか効かないかという二択で語られやすい一方で、実際には「何に対して効いているのか」が問題になる場面がほとんどです。
この記事では、清算条項の一行がどこに向けられた条項なのかを確かめたうえで、その一行で消えるもの・残るもの・書き方によって分かれるものを並べ直します。条項の文言そのものの設計や、いったん成立した合意が後から覆る場面については、別の記事に譲ります。
この記事で扱うこと・扱わないこと
清算条項をめぐる論点は広いため、この記事では次の範囲に絞ります。
- 扱うのは、清算条項が向けられている対象と、消えるもの・残るものの仕分けです。
- 扱わないのは、条項の文言の組み立て方や言い回しの選び方です。
- 扱わないのは、いったん成立した合意が錯誤などを理由に覆る場面です。
- 扱わないのは、示談が成立した後に再び請求が届いた場合の対応の手順です。
- 扱わないのは、支払いの記録の残し方や書面の保管の仕方です。
- 扱わないのは、分割払いの取り決めや公正証書にする手続です。
いずれも別の記事で扱っていますので、そちらをあわせてご覧ください。
清算条項の一行は、どこに向けられているのか
最初に、この条項が何をしている条項なのかを押さえておきます。ここを取り違えると、後の仕分けがすべてずれてしまいます。
「消す」というより「もうないことを確かめる」条項
示談は、法律上は和解にあたります。和解は、当事者が互いに譲歩して争いをやめることを約束することで成立する契約です(民法695条)。そして、和解によって定まった内容は、後から違う事実が判明したとしても原則として動かないものとして扱われます(民法696条)。
清算条項は、この和解の効果をはっきりさせるために置かれます。多くの書式が「債権債務がないことを相互に確認する」という書き方になっているのは、新たに権利を消す約束をしているというより、この合意によってすでに残っていない状態になったことを、双方で書き留めておく条項だからです。確認する対象は、あくまで当事者どうしの間にある民事上の権利義務です。
向けられているのは「人と人の間のお金の話」
この点を意識すると、条項の届く範囲がおのずと決まってきます。向けられているのは、署名した二人(または三人)の間にある金銭の請求権です。署名していない人との関係、これから起きること、お金以外の場面での評価は、もともとこの条項が向いている先ではありません。
「効かなかった」と感じられる場面の多くは、条項が破られたのではなく、はじめからその方向を向いていなかったというだけのことがあります。
その一行で消えるもの・残るもの・分かれるもの
実際の書面をもとに、手元にある権利義務を三つに仕分けると次のようになります。
| 区分 | 中身の例 | そう扱われる理由 |
|---|---|---|
| 消えるもの | 書面の金額のほかに求めるつもりだった慰謝料、まだ口に出していなかった調査費用や治療費、合意の日までに生じていた遅延損害金、こちらが相手に対して持っていた請求権 | 条項は当事者間に債権債務がないことを確認するもので、すでに請求したかどうかで区別していないため |
| 残るもの | 示談書自身が定めた支払義務、合意の日より後に起きたこと、示談の当事者になっていない人との関係、子どもの養育に関わる権利、刑事や行政の手続 | いずれも当事者どうしの民事上の権利義務という枠の外にあるため |
| 書き方で分かれるもの | 求償の扱い、接触や口外に関する約束、後から出てくるかもしれない損害の扱い | 誰を当事者にするか、どのような文言を置くかによって、含まれるか外れるかが変わるため |
以下では、それぞれの区分の中で見落とされやすいところを取り上げます。
消える側で見落とされやすいもの
「消えるもの」は、金額の話だと思われがちです。実際には、金額以外のところで思わぬものが一緒になくなっていることがあります。
まだ口に出していなかった費目も一緒になくなる
慰謝料のほかに、探偵に依頼した費用、体調を崩して通院した費用、合意の日までに積み上がっていた遅延損害金などが頭にあったとします。交渉の場でそれらを持ち出していなかったとしても、請求していないから手つかずで残っている、ということにはなりません。条項は、請求済みかどうかで対象を分けていないためです。
「あとで思い出したら、そのときに言えばよい」と考えていると、言えないまま終わることになります。署名の前に、この件に関して支払ったお金・支払う予定のお金を一度書き出しておくことをおすすめします。
自分の側が持っていた請求権も同時になくなる
多くの書式は「相互に確認する」という書き方をしています。これは双方向の条項ですので、請求を受けた側が持っていたかもしれない請求権も、同じ一行で確認の対象に入ります。たとえば、交渉の過程で職場や家族に事実を伝えられた、必要を超えた取り立てを受けたといった事情があった場合、それについて金銭で何かを求める余地は、この一行によって閉じられることになります。
請求を受ける立場からすると不利にしか見えない条項ですが、片方向ではないという点は押さえておく意味があります。
金額への不満は、書面の外には出せなくなる
支払いを受けた後になって「相場からすると低かったのではないか」と感じられることがあります。ただ、金額が争いの中心だった以上、その不満はまさに清算の対象そのものです。金額の当否は、署名の前に検討しておくほかありません。
消えるのは請求権であって、起きた出来事ではない
ここが、「終わったはずなのに終わっていない」という感覚が生まれる最大の場所です。清算条項がなくすのは請求できる権利であって、事実そのものではありません。
夫婦の間の話し合いは別のレールで続く
不貞相手との間で示談が成立し、清算条項を置いたとします。それによって閉じたのは、その二人の間のお金の話です。夫婦の間で離婚をするかどうか、離婚をするならどのような条件にするかという話し合いは、まったく別のレールの上で続きます。不貞行為があったことは、法律上、離婚の原因になり得る事情として掲げられています(民法770条1項1号)。示談をしたからその事情がなかったことになる、という関係にはありません。
示談書そのものが、事実を裏づける書面として残る
示談書の冒頭には、不貞行為があったことを認める記載が置かれることが少なくありません。清算条項によって請求ができなくなっても、その書面は残ります。後に別の場面で当時の事実が問題になったとき、この書面が事実関係を示す材料として扱われる可能性があります。
「これで白紙に戻る」という受け止め方をされている方がいらっしゃいますが、書面は白紙にはなりません。むしろ、はっきりした形で残ります。
職場や家庭の中で起きることは、法律の外にある
噂が広がる、社内での立場が変わる、家庭内の関係がぎくしゃくするといった出来事は、そもそも請求権の話ではありません。口外しないことを約束したいのであれば、清算条項とは別に、その旨の条項を置く必要があります。
当事者は二人でも、関係者は三人以上いる
不貞の慰謝料は、関係する人が三人以上になるという特徴があります。清算条項が届く範囲を考えるうえで、ここは避けて通れません。
誰と誰の間で結んだ書面なのか
不貞行為による慰謝料は、共同で不法行為をした者が連帯して責任を負うという考え方が前提になっています(民法719条1項)。請求する側は、配偶者と不貞相手のどちらに請求してもよく、片方だけと示談をすることもできます。
このとき、片方との間で置いた清算条項は、もう片方との関係までは確認していません。不貞相手とだけ示談をした場合、配偶者との間の話は書面の外に残ることになります。
求償の行き来は、また別の二人の間の話
慰謝料を全額支払った不貞相手が、不貞をした配偶者に対して負担分を求めることがあります。この求償は、請求した配偶者と不貞相手の間ではなく、不貞をした配偶者と不貞相手の間の問題です。
そのため、二人の間の示談書に「求償権を放棄する」と書いてあっても、それは二人の間の約束にとどまり、三人目に対する権利そのものが当然になくなるとは限らないという指摘があります。三人で書面を交わす、約束に反した場合の取り決めを置くといった工夫が検討されるのはこのためです。求償の考え方そのものについては、別の記事で詳しく扱っています。
もう一方の配偶者、そして子ども
双方が既婚者である場合、当事者は四人になります。一方の夫婦の間で示談が成立しても、もう一方の配偶者からの請求は、その示談の外に残ります。
また、子どもの養育に関わる事柄は、そもそも当事者どうしで処分できる性質のものではありません。子の監護について必要な事項は子の利益を最も優先して考慮して定めるものとされており(民法766条1項)、扶養を受ける権利は処分することができないとされています(民法881条)。夫婦の間の書面に清算条項を置いても、子ども自身の立場からの権利まで閉じられるわけではありません。
「効いている」ことを、後から誰が示すのか
もうひとつ、あまり書かれていない点があります。清算条項は、置いてあるだけで自動的に働く仕組みではないということです。
自分から持ち出さないと、判断の材料にならない
仮に示談の後に訴えを起こされた場合、清算条項があるという事情は、請求を受けた側が自分で主張し、書面を示してはじめて判断の対象になります。裁判所が事情を推し量って拾い上げてくれるわけではありません。示談書が手元にない、どこにしまったか分からないという状態では、この主張が難しくなります。
争いになるのは「本件に含まれるかどうか」
相手方が「これは別の話だ」と述べてきた場合、争点になるのは条項の有効性ではなく、その請求が書面でいう「本件」に含まれるかどうかという解釈の問題です。示談書に事実関係がどこまで具体的に書かれていたかが、ここで効いてきます。
請求する側から読み直すと
ここまでは支払う側の視点が中心でしたが、受け取る側にも同じ地図が必要です。
清算条項を求められるのは自然なこと
支払う側からすれば、支払った後にまた請求されるのであれば示談をする意味が乏しくなります。条項を置かないよう求める交渉は、まとまりにくいのが実情です。条項の有無ではなく、条項が何を閉じるのかを確かめる方向で検討されるほうが現実的です。
閉じたくないものを、先に選び出しておく
治療がまだ続いている、関係が本当に切れたのか確信が持てないといった事情があるなら、署名の前にそれを言葉にしておく必要があります。合意の後に持ち出しても、相手が応じる理由がなくなっているためです。
「連絡が来ない」と「請求できなくなる」は別
条項があっても、相手から連絡が来ること自体を止められるわけではありません。逆に、連絡が来たからといって条項が意味を失うわけでもありません。この二つは切り分けて考えると、落ち着いて対応しやすくなります。
署名の前に確かめておきたいこと
最後に、実際に書面を前にしたときの確認点をまとめます。
- この件に関して、すでに出ているお金・これから出そうなお金をすべて書き出したか。
- 書面に名前があるのは誰か、名前のない関係者は誰か。
- 求償について、どのような取り決めになっているか。
- これから先の約束(接触や口外に関するもの)が、別の条項として置かれているか。
- 書面に書かれた事実関係が、後から読んで分かる程度に具体的か。
- 夫婦の間の話し合いを、この書面とは別に整理できているか。
- 署名した後、この書面をどこに保管するか。
よくあるご質問
示談書に清算条項があると、離婚のときに不利になりますか
不貞相手との示談と、夫婦の間の離婚の話し合いは、別の手続です。示談によって不貞相手への請求は閉じられますが、離婚をするかどうか、その条件をどうするかは、そこで決まるわけではありません。ただ、示談書の内容が夫婦の間の話し合いで持ち出される可能性はありますので、どのような記載になっているかは把握しておかれるとよいと思います。
相手が「書いていないから請求できる」と言ってきました
その主張が通るかどうかは、請求されている中身が書面でいう「本件」に含まれるかどうかによります。合意の日より後の出来事であれば、確かに書面の外の話です。他方、合意の日までに生じていた費用であれば、書面に書いていないことは理由になりにくいと考えられます。どちらにあたるのかを、日付と中身の両面から整理してみてください。
支払いを終えた後に、治療費の領収書が出てきました
その治療が合意の日より前の期間のものであれば、清算の対象に入っている可能性が高いと考えられます。合意の後に新たに生じた事情によるものであれば、判断が分かれる場面です。領収書の日付と、示談書に書かれた事実関係の範囲を照らし合わせたうえで、ご相談いただければと思います。
弁護士に相談する意味
清算条項をめぐるご相談の多くは、条項の言い回しそのものではなく、「自分の手元に何があるのか分かっていなかった」ことから生じています。書面に署名する前であれば、何を閉じて何を残すかを選ぶ余地があります。署名の後になると、その余地は大きく狭まります。
弁護士は、目の前の書面が何を確認しようとしているのかを読み解いたうえで、まだ手元に残っている権利や、逆に一緒に閉じられてしまう事柄を洗い出します。相手方から示された書式をそのまま受け取るのではなく、自分の状況に合っているかを確かめる段階で一度ご相談いただくと、判断の材料が増えます。
まとめ
- 示談は和解にあたり、清算条項は当事者間に債権債務が残っていないことを確認する条項です(民法695条・696条)。
- 向けられているのは、署名した当事者どうしの民事上の金銭の請求権です。
- まだ口に出していなかった費目や、こちらが持っていた請求権も、同じ一行で対象に入ります。
- 消えるのは請求権であって、起きた出来事そのものではなく、示談書は事実を示す書面として残ります。
- 不貞の慰謝料は関係者が三人以上になるため、片方との示談は、もう片方との関係までは確認していません(民法719条1項)。
- 子どもの養育に関わる権利は、当事者どうしの書面で処分できる性質のものではありません(民法766条1項・881条)。
- 清算条項は、後の場面で自分から主張してはじめて判断の材料になります。
- 署名の前に、この件に関するお金と関係者を一度書き出しておくことが、いちばんの備えになります。
示談書の内容にご不安のある方へ
弁護士法人若井綜合法律事務所では、男女間のトラブルに関するご相談を池袋と新橋の事務所でお受けしています。示談書の文案が届いた段階、あるいは相手方から署名を求められている段階でのご相談も承っています。
慰謝料を請求される立場の方には、その一行で何が閉じられるのかを確認したうえでの判断を、請求する立場の方には、閉じたくないものを先に選び出す作業を、それぞれお手伝いします。書面を交わす前でも、すでに署名された後でも、状況に応じてできることをご一緒に整理いたしますので、お気軽にお問い合わせください。


