示談書の日付・署名・押印・部数|書面を整えるときの実務
被害者の氏名や住所が伏せられたまま、手続が進んでいく事件があります。逮捕状や勾留状を示されたのに、そこに相手の名前が書かれていない。起訴されて届いた書面にも、氏名の記載がない。そうした状態で「示談をしたい」と考えたとき、そもそも誰と、どのような書面を交わせばよいのかという問題に突き当たります。
これは、令和5年の刑事訴訟法改正で整えられた個人特定事項の秘匿という仕組みによるものです。個人特定事項とは、氏名や住所など、その人が誰であるかを特定させることになる事項をいいます。令和6年2月15日から施行されており、性犯罪の事件を中心に、被害を受けたとされる方の氏名などを被疑者・被告人に知らせないまま手続を進めることができるようになりました。
名前が分からないのだから示談もできない、と受け取られがちですが、実務ではそうとも限りません。書面の作り方と、連絡の道筋の付け方に、いくつかの工夫の余地があります。この記事では、氏名が伏せられている事件で示談書をどう組み立てるのか、どこで行き詰まりやすいのかを整理します。
この記事で扱うこと・扱わないこと
扱うのは、相手の氏名が分からない状態での示談書の作り方と、その前提となる手続です。次の点は別の論点になるため、ここでは踏み込みません。
- 示談金の金額が妥当かどうかという判断。
- 示談が成立した場合に処分がどうなるかという見通し。
- すでに逮捕や呼出しを受けている方の、個別の対応方針。
- 交通事故や不倫など、刑事事件以外の示談書の書き方。
「氏名が分からない」には三つの段階がある
同じ「相手の名前が分からない」でも、その理由によって、できることが変わります。まずは自分がどの段階にいるのかを確かめるところからです。
| 状態 | 本人に伝わる情報 | 弁護人に伝わる情報 |
|---|---|---|
| 秘匿の措置がとられていない | 令状や起訴状の記載から氏名等が分かる | 同じ内容が分かる |
| 秘匿の措置がとられている | 氏名等の記載がない抄本などが示される | 条件付きで知らされることがある |
| 弁護人にも知らせない措置 | 氏名等は知らされない | 氏名等は知らされない |
事実上、教えてもらえないだけの場合
制度としての秘匿措置はとられていないものの、被害を受けたとされる方が連絡先を伝えることを望んでいない、という場面です。令状や起訴状には氏名の記載があるため、書面のうえでは相手が誰か分かっている状態にあたります。この場合、示談書の当事者欄に氏名を書くこと自体は可能で、問題になるのは連絡の取り方のほうです。
秘匿の措置がとられている場合
捜査段階では、被疑者に対して個人特定事項の記載がない逮捕状や勾留状の抄本などが示され、勾留質問などの場面でも氏名などを明らかにしない方法で被疑事実が告げられます。起訴後は、被告人に個人特定事項の記載がない起訴状抄本などが送達される一方、弁護人には、その内容を被告人に知らせてはならないという条件を付けたうえで起訴状の謄本が送達され、証拠が開示されることがあります。根拠となるのは刑事訴訟法201条の2、207条の2、271条の2、271条の3などです。
この段階では、弁護人は相手が誰かを把握しているが、本人には伝えられないという状態が生じます。示談の準備は弁護人の側で進められますが、依頼している本人には相手の氏名が伝わらないまま手続が進むことになります。
弁護人にも知らせない措置がとられる場合
弁護人に条件を付けるだけでは足りないと判断された場合には、弁護人に対しても個人特定事項を知らせないという扱いが可能とされています。法務省の説明でも、被告人の防御に実質的な不利益が生じる場合を除いて、弁護人にも知らせないことができるとされています。判決後についても、判決書の謄本を通じて秘匿された事項が知られることのないよう、記載のないものが交付される仕組みが設けられています。
この段階になると、弁護人も相手の氏名を知らないまま示談の話を進めることになります。書面の形は、後で述べるように、より工夫が必要になります。
秘匿されていても、示談ができなくなるわけではない
実務では、被害を受けたとされる方の連絡先が、弁護人に限って伝えられることがあります。多くの場合、その目的は示談や被害弁償です。捜査機関を経由して意向を確認し、承諾が得られた範囲で連絡先が伝えられる、という順序をたどります。
- 弁護人が、捜査段階では警察官や検察官に、起訴後は検察官に、示談を希望している旨を伝えます。
- 捜査機関から、被害を受けたとされる方に、弁護人に連絡先を伝えてよいかどうかの意向が確認されます。
- 承諾が得られた場合に、弁護人限りという条件のもとで連絡先が伝えられます。
- 弁護人が連絡を取り、条件と書面の形を相談します。
承諾が得られなければ、この入口自体が開きません。応じるかどうかは相手の判断であり、断られることも当然にあります。なお、国選弁護人が選任される場面についても、被疑者に知らせないという条件のもとで、弁護人になろうとする弁護士に氏名を伝えてよいかどうか、被害を受けた方の意向を確認するよう努めるという取扱いが、警察の内部の通達で定められています。名前を伏せたままでも被害の回復に向けた話を始められるように、という趣旨のものです。
示談書の当事者欄をどう書くか
示談書は、当事者が誰と誰であり、何について合意したのかが分かる書面である必要があります。氏名を書かない場合には、その代わりになる特定の方法を用意することになります。
事件と呼称で特定する
刑事事件には、警察や検察の段階でそれぞれ事件の番号が付けられます。氏名の代わりにこの事件番号を用い、「令和○年検第○号事件の被害者」といった形で当事者を特定する方法が、性犯罪の事件などで用いられています。公判で「Aさん」といった呼称が定められている場合には、その呼称を使うこともあります。事件番号は、弁護人が捜査機関に確認して把握します。
代理人の名義で署名する
相手方に代理人の弁護士が就いている場合には、署名押印の欄を代理人の氏名で作る形が一般的です。本人の氏名を書面に残さずに、合意の当事者を明らかにすることができます。この場合、代理人がその方から委任を受けていることを確認しておくことが、書面の実質を支えます。委任状の提示を求めるか、少なくとも受任している旨の書面での回答を得ておくのが安全です。
相手に代理人がいない場合
被害を受けたとされる方に代理人が就いていない場合には、書面のやり取り自体を捜査機関経由や郵送で行い、氏名の記載を求めない形にすることがあります。書面の形にこだわらず、賠償金を受け取ったことと、以後の請求をしないことを記した書面を相手に作成してもらう、という進め方が紹介されることもあります。いずれにしても、相手が納得しなければ成立しないという点は変わりません。
対象となる出来事をどこまで書くか
当事者の氏名を書かない分、「どの出来事についての合意なのか」の特定が重みを増します。日時、場所、行為の概要といった要素で特定するのが通常です。
ただし、事実関係を細かく書き込むことには別の側面がある点には注意が必要です。示談書に記載した自分の行為についての記述は、刑事手続のなかで供述書に類するものとして扱われる可能性があります。特定に必要な範囲と、認めた内容を細かく残すこととは、切り分けて考えることになります。この点は、争っている事件かどうかによって判断が変わるため、書面の文言は弁護人と相談しながら決めるのが無難です。
支払の方法から氏名が分かってしまう場面
書面の上で氏名を伏せていても、お金の流れから相手が分かってしまうことがあります。ここは見落とされやすいところです。
振込にした場合の口座名義
示談金を相手の口座に直接振り込むと、振込の記録に口座名義が残ります。氏名を伏せている意味が薄れるため、代理人の預り金口座を経由する、あるいは弁護士の事務所で現金を交付するといった方法がとられることがあります。どの方法をとれるかは、依頼する事務所の運用にもよります。
領収書や受領証の宛名
受領の証跡は残しておきたいものですが、宛名や差出人の欄に氏名が入ると、同じことが起こります。代理人の名義で受領証を作成してもらう、宛名を事件の表示にとどめるなど、書面の様式の段階で決めておくとよいでしょう。
示談書を誰が持っておくか
弁護人に対して「被告人に知らせてはならない」という条件が付されている場合、氏名が記載された書面を本人が手元に持つことは、その条件と整合しにくいという問題が生じます。示談書に氏名を書かない形にするか、氏名の記載がある書面は弁護人が保管し、本人には条件に反しない形で内容を伝える、といった扱いが必要になります。
示談書は検察官や裁判所に提出することが多い書面です。提出先の側は、被害を受けたとされる方に直接確認を取ることができるため、書面に本人の氏名がないことをもって、合意の存在が確認できないというわけではありません。この点は、氏名を書かない形式が実務で用いられている理由のひとつでもあります。
氏名が分からないまま結んだ示談は、後で効くのか
示談は、民法上の和解にあたる合意です。当事者が争いをやめることを約束したときは、その内容に沿って権利関係が確定するとされています(民法695条、696条)。氏名の記載がないこと自体が、合意の効力を直ちに失わせるわけではありません。
もっとも、後から「その合意の当事者が誰であったか」が問題になる場面はあり得ます。備えとしては、次のような点が挙げられます。
- 相手方の代理人の受任を、委任状などで確認しておくこと。
- 事件番号や呼称など、当事者を後から結び付けられる特定方法を書面に残しておくこと。
- 支払の事実を、受領証や預り金口座の記録として残しておくこと。
- 清算条項の対象を、どの出来事についてのものか分かる形で書いておくこと。
なお、刑事手続における秘匿の措置は、民事の裁判にそのまま及ぶものではありません。民事訴訟にも、社会生活を営むのに著しい支障が生じるおそれがある場合に氏名などを秘匿する制度が別に設けられており、相手方が氏名を明かさないまま損害賠償を求めてくることも考えられます。清算条項の書き方が意味を持つのは、こうした場面です。
氏名を教えてほしいと求めることはできるのか
制度上、被疑者・被告人またはその弁護人の請求により、裁判官や裁判所が個人特定事項の全部または一部を通知する旨の判断をする仕組みが設けられています(刑事訴訟法207条の3、271条の5など)。ただし、その判断の基準として置かれているのは、防御に実質的な不利益が生じるおそれがあるかどうかという点です。
示談をしたいという事情は、それ自体としては防御上の不利益とは異なる問題として扱われます。無罪を争っている事件で、誰について起訴されているのかが分からないと防御ができないといった事情があれば、請求を検討する余地があります。一方、事実を認めたうえで示談を進めたい場合には、この請求よりも、捜査機関を通じた意向確認から始めるほうが実際的なことが多いといえます。
被害を受けたとされる側から見たとき
秘匿を希望する場合、その意向は、担当している警察官や検察官に伝えることになります。手続の早い段階で伝えておくほど、書面の作り方に反映されやすくなります。
賠償を受け取ることと、氏名を明かすことは、つねに一体というわけではありません。代理人を立てる、事務所で現金を受け取る、書面の署名を代理人の名義にするといった形で、名前を伏せたまま解決した例が紹介されています。示談に応じる義務はなく、受け取ったからといって相手を許さなければならないというものでもありません。条件の一部だけを受け入れる、という選択もあり得ます。
避けたほうがよい進め方
相手の氏名が分からない状況では、次のような動き方が、かえって不利に働くことがあります。
- 手続の外で相手を探し出そうとすること。秘匿の趣旨に反すると受け取られ、身柄や処分の判断に影響することがあります。
- 弁護人から聞いた情報を、周囲に伝えたり書き残したりすること。条件が付されている場合には、その条件に反することになります。
- 書面を作らずに金銭だけを渡すこと。後から範囲が争われたときに、合意の内容を示すものが残りません。
- 特定のために必要のない事実関係まで、細かく書面に書き込むこと。
相談する前に整理しておきたいこと
弁護士に相談する際、次の点が分かっていると、話が早く進みます。
- どの段階の手続にいるのか(捜査中か、起訴されたか)。
- 示された書面に、相手の氏名の記載があったかどうか。
- 警察官や検察官から、秘匿の措置について説明を受けたかどうか。
- 事実関係について、争うつもりがあるのかどうか。
- 支払に充てられる資金の見込みと、その出どころ。
よくある質問
相手の氏名が分からないのに払って、本当に本人に届くのでしょうか
代理人の弁護士が受任していることを確認したうえで、その代理人を経由して支払う形をとれば、届いていないという事態は起こりにくくなります。受領証を作成してもらうこと、預り金口座の記録を残すことが、その裏付けになります。捜査機関の側でも、示談が成立したかどうかを相手に確認することがあります。
自分の氏名は示談書に書くことになりますか
通常は記載します。相手が加害者側の氏名を知りたいと考えるのは自然なことでもあります。双方が氏名を伏せる形が成り立たない場面ばかりというわけでもなく、交渉次第という面があります。自分の側の情報をどこまで出すかという論点は、別の記事で扱っています。
示談をした後で、民事で訴えられることはありますか
清算条項の書き方によります。示談の対象がどの出来事についてのものかを明確にしておかないと、範囲外だという主張の余地が残ります。逆に、範囲を広く書きすぎると、こちらから何かを求める余地も同時に失うことがあります。
秘匿されていると、示談は難しくなるのでしょうか
連絡の入口が捜査機関を経由する分、時間はかかります。ただ、名前を知られずに済むことが、被害を受けた方にとって話し合いに応じやすい条件になる場合もあります。難しくなる面と、進みやすくなる面の両方があると考えておくとよいでしょう。
まとめ
- 令和6年2月15日から、被害者などの氏名や住所を被疑者・被告人に知らせない仕組みが運用されています。
- 「氏名が分からない」には、事実上教えてもらえない場合、秘匿の措置がとられている場合、弁護人にも知らされない場合の三つの段階があります。
- 連絡の入口は、捜査機関を通じた意向確認です。承諾が得られなければ交渉は始まりません。
- 示談書では、氏名の代わりに事件番号や呼称で当事者を特定し、署名は代理人の名義で行う形がとられています。
- 振込の口座名義や領収書の宛名など、書面以外の経路から氏名が分かってしまうことがあります。
- 弁護人に条件が付されている場合、氏名の記載がある書面の保管方法にも配慮が必要です。
- 氏名の記載がなくても合意の効力が直ちに失われるわけではありませんが、当事者を後から結び付けられる形を残しておくことが大切です。
- 氏名の通知を求める請求は、防御上の不利益を基準とする制度であり、示談を目的とする場面とは性質が異なります。
相手の氏名が分からない状態は、何をしてよいのか分からず、時間だけが過ぎていきやすい局面です。書面の形と連絡の道筋には、事案に応じた選び方があります。判断に迷う場合は、早めに弁護士にご相談ください。


